カザン火薬工場=
写真提供:TY-214/wikipedia.org (CC BY-SA 3.0)ロシア帝国を工業的な先進国だったと言うことはできない。1913年に都市部に暮らしていたのは国民のわずか13%で、工業化経済へとようやく移行できたのはソ連時代である。一部の歴史学者のデータによれば、1934年までに9000の新工場が創業していた。とはいえ、帝政時代に優れた工場がなかったという意味ではない。一部は2月革命と10月革命、二度の世界大戦、国有化と民営化をのりこえ、今日も順調にチョコレート、機械、船舶、靴、弾薬をつくり続けている。
穏やかな「独立した」生活を、1917年8月に悲劇が襲った。くすぶっていたタバコの吸い殻から火災が発生し、強大な工場が焼失。数百万の弾丸、砲弾、数百の建物が燃えた。工場が再建されたのはソ連時代に入ってからで、第二次世界大戦中には伝説的な自走式多連装ロケット砲「カチューシャ」の砲弾が生産された。今日も、大砲や銃器の火薬を生産している。
キーロフ工場、サンクトペテルブルク=Lori/Legion-Media
このサンクトペテルブルクの工場は1801年に誕生したが、有名になったのは19世紀の終わりから20世紀の初めにかけてである。1868年に工場を購入したN.I.プチロフから、プチロフスキー工場という名称になっていた。生産していたのは、蒸気機関車、貨車、工作機械、砲弾、船舶用大砲など。つまり、ロシア帝国の大型製鉄・機械建造センターになっていた。労働者が政治的に積極的であることでも知られていた。労働者が1905年に起こしたストライキは、1905年1月22日の血の日曜日事件へと発展。ロシア第一革命の発端となった。1917年にはこの工場の多くの労働者がボリシェヴィキの赤衛軍に入った。
ソ連時代になると、ソ連の政治家セルゲイ・キーロフにちなんでキーロフ工場と改名された。工場は1941~1944年のナチスドイツによるレニングラード包囲戦の最中でも稼働を続けていた。労働者の2500人が餓死したが、キーロフ工場は戦車を生産、修理し続けた。その中には有名な重戦車KVもあった。今日、この工場では農機の組み立てが行われている。
モスクワ、製菓会社「ババエフスキー」のビル= Lori/Legion-Media
1804年創業のモスクワの会社。212年で元農奴の店から大規模な工場施設へと変貌を遂げた。元農奴の男性は19世紀初め、果物からお菓子を作る小さな工房を開設した。その子孫は工房を工場へと発展させ、1899年には宮廷に品を供給するようになった。1922年まで、「A.I.アプリコソフ&子息会社」という名称であった。
工場はソ連時代も稼働し、現在も生産を続けている。普通のチェーン・スーパーでもババエフスキーのチョコレートは販売されている。ロシアの土産にいかがだろうか。
「リハチョフ記念工場(ZIL)」=ヴァレンチン・ソボレフ/タス通信
モスクワの会社。ロシア革命までは「モスクワ自動車会社(AMO)」、スターリン時代は「スターリン記念工場(ZIS)」と名称が変わっている。工場の建設が始まったのは1916年だが、ロシア革命までに完工しなかった。ここでは数年間、外国車がライセンス組み立てされていた。初の独自のトラックの生産が始まったのは1924年。生産規模は急速に拡大し、第二次世界大戦では、ソ連軍に供給されたトラックの数で第二位であった。ZISは高級リムジンも生産していた。
ソ連崩壊後、ZILはその地位を失い、2016年までには活動をほぼ停止している。ZILの敷地に、オフィスやマンションを建設する計画もある。だが第6工場はまだ稼働しており、注文に応じてクラシックなZILリムジンを生産している。
バルト工場は2016年に世界最大の原子力砕氷船「アルクチカ」が進水した。=スヴャトスラヴ・アキモフ/ロシア通信
1856年に創業したサンクトペテルブルクの造船会社。100年前、最先端工場であった。現在もそうである。バルト工場は1903年、国内初の戦闘潜水艦を生産した。2016年、世界最大の原子力砕氷船「アルクチカ」が進水した。バルト工場では、ドイツ向けのタンカーや、インド向けのフリゲート艦など、輸出用船舶もつくられている。
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