ロシアの3人のアマゾネス

『軽騎兵のバラード』映画、1962年

『軽騎兵のバラード』映画、1962年

=Kinopoisk.ru
 ロシアの歴史は、ツワモノたちの物語に満ちているが、ロシア女性もまた、戦場のような、伝統的に男性の領分であるところでさえ、強さを証明している。

 19世紀ロシアの詩人、ニコライ・ネクラーソフの詩に名高い一節がある。ロシアの女性たちは「疾走する馬を止め、燃え盛る家に飛び込むことができる」と。ロシアNOWは、そういうパワフルなロシアの「ワンダー・ウーマン」のなかから、3人を選び出した。

 

1. キエフ大公妃オリガ

大公妃オリガ、セルゲイ・キリロフ画、1993年大公妃オリガ、セルゲイ・キリロフ画、1993年

 キエフ大公妃オリガは、現代ロシアの源流、キエフ大公国の初期の支配者の一人だ。彼女の治世は昔も昔、10世紀のことで、その生涯についてはほとんど知られていない。その治世で最も鮮烈なエピソードはといえば、彼女が夫イーゴリの死に対し、いかに復讐したか。キエフ大公国の支配下にあったドレヴャリャーネ族から、貢納(税金)を取り立てようとして、イーゴリは殺害されたのだった。

 年代記によると、この部族は、イーゴリが数度にわたり貢納を集めようとした際に、それを不当だとみて怒った。その結果、彼らはイーゴリを殺し、オリガに、自分たちの公に嫁ぐことに同意するかと聞いてきた。

 オリガは、表向きはこの提案に反対せず、この新たな婚姻の条件について交渉するためにドレヴャリャーネ族が派遣してきた者たちを、密かに殺害した。彼女はその後、この部族の領土に遠征軍を送り、彼らの首都イースコロステニを包囲した。そしてオリガは、3羽の鳩と雀を首都の各家庭からよこすように求めた。住民がこの要求に応じると、彼女は、燃える藁をそれぞれの鳥に結わえ付けてから持ち主に送り返せ、と命じた。

 これらの“火の鳥”のせいで、街全体が焼け落ちた。火災から生き残った住民も、殺されるか、奴隷に売り飛ばされるかした。一方、オリガは、将来貢納に関する争いの可能性を取り除くべく、徴税制度を改革した。

 

2. アリョーナ・アルザマスカヤ

アリョーナ・アルザマスカヤの彫刻、テムにコフ市の郷土博物館=スタニスラブ・クラシルニコフ/タス通信アリョーナ・アルザマスカヤの彫刻、テムにコフ市の郷土博物館=スタニスラブ・クラシルニコフ/タス通信

 アリョーナ・アルザマスカヤは、モスクワの南東約400キロに位置するアルザマスの出身だ。しばしば彼女は、「ロシアのジャンヌ・ダルク」と呼ばれる。ただし、このフランスの少女のほうは、外国の侵略者、イングランドと戦ったが、アルザマスカヤの敵は、ロシアのツァーリによって送られてきた軍隊だった。

 彼女はコサック隊長として、1670年にステンカ・ラージンが率いた蜂起に参加した。やはりコサックであったラージンは、数千人の農民を自らのもとに結集し、当時のロシア政府に挑戦したのである。この反乱の規模の大きさゆえに、それはソ連時代には「農民戦争」と呼ばれていた。

 アルザマスカヤは、反乱軍に加わる前は修道女だった。しかし蜂起が始まるや、彼女は巧みな軍隊指揮官ぶりを発揮し、数百人の戦士が彼女の命令の下で戦った。ツァーリの正規軍の司令官たちとの戦いで、彼女は模範的な勇気を示した。

 ロシアの兵士が最終的にアルザマスカヤの部隊を包囲し、彼女の連隊が守っていた教会に突入したときも、最後に捕虜になったのは彼女だった。彼女が矢を使い果たして、ロシア兵が彼女を捕らえたときは、跪いて祈っていた。

 アルザマスカヤの捕縛後の行動にも、誰もが驚いた。拷問に屈せず、生きながら焼かれたときも、恐怖を見せずに死んでいった。彼女はその火刑の最中、ついに一言も発しなかった。言い伝えによれば、彼女の弓は大変な強弓で、他の兵士は誰ひとりそれを引けなかったという。ずば抜けた体力の持ち主だったようだ。

 

3. ナジェージダ・ドゥーロワ

ナジェージダ・ドゥーロワ、1810年=Getty Imagesナジェージダ・ドゥーロワ、1810年=Getty Images

 ナジェージダ・ドゥーロワは、19世紀初めのナポレオン戦争で名を馳せた。彼女は性別を偽り、男として軍隊に入ったのだった。

 将校の家庭で育った彼女は、幼い頃から軍隊勤務の特徴になじんでいた。ドゥーロワが回想録に記しているところによると、「鞍が私の最初の揺りかごだった。馬、武器、軍楽は、私の幼年時代の最初のおもちゃで娯楽だった」

 ドゥーロワの伝記作者たちが指摘しているように、母親との関係がぎすぎすしていたこともあって、彼女の軍隊への憧れは強まっていく。

 ドゥーロワは、18歳のときに結婚し、すぐ子供を産んだ。しかし、家庭生活には惹かれなかった。間もなく彼女は、コサックの将校と駆け落ちし、結局、軍隊に入ることに決めた。だが、当時それは、性をごまかして男のふりをしなければ無理だった。それで彼女は、アレクサンドル・ソコロフという男の名で、リトアニア軽騎兵連隊に入隊した。

 1806年~1807年にドゥーロワは、プロイセンでナポレオン軍と戦った。そしてその勇敢さに対して、当時制定されたばかりのゲオルギー十字章を授与された。

 ドゥーロワは、家族と連絡を取っていなかったが、彼女の父親は娘を見つけてしまい、おかげで“正体”がばれてしまった。結局、この驚天動地の女性のニュースは、皇帝アレクサンドル1世の耳にも達した。ツァーリはドゥーロワを引見し、彼女に軍隊勤務を続けさせることにした。皇帝にちなみ、アレクサンドル・アレクサンドロフという新しい名前で、彼女は別の騎兵部隊に配属された。1812年のナポレオンのロシア遠征に際しては、総司令官ミハイル・クトゥーゾフ付きの伝令将校を務めた。

 ドゥーロワは、父親から再三要求されたあげく、ついに1816年に退役した。しかし、彼女は退役後でさえ、男の名で呼ばれるのを好んだという。