私たちが作家の偉大さを知るのは、当然ながら、その芸術的遺産と哲学的遺産からだ。彼らの多くが倫理的尺度から見ておよそ完璧でなかったとしても、彼らの才能が毀損されるわけではない。それは恋愛面も同様で、彼らの恋愛沙汰における様々な軋轢も、時には創作の触媒ともなったようである。
アレクサンドル・プーシキン、ナタリア・ゴンチャロワ
Orest Kiprensky/Sputnik, Global Look Pressロシアの人々が「我々のすべて」とまで表現するプーシキンから始めよう。彼は自らを評して「さすがのロクデナシ!」と言った。もっともこれは、『ボリス・ゴドゥノフ』を書き上げた時に、良い意味で言ったものだ。
天才的な詩や散文を多く遺したこの文豪は、大変な女たらしでもあった。彼に流れるアフリカの血が、その情熱的な性分の源泉かもしれない。プーシキンの曽祖父は、ロシア帝国初のアフリカ人で、ピョートル1世の召使だった。
プーシキンは若年の頃から詩を数多の女性に捧げ、後に37名から成るドン・ジュアン顔負けのリストまで作っている。しかし結婚は、ナタリア・ゴンチャロワとの1回のみである。彼女の不義らしきことが、プーシキンを決闘に駆り立て、彼は命を落とすことになる。
フョードル・ドストエフスキー、マリア・ドストエフスカヤ、アンナ・スニトキナ、アポリナーリア・スースロワ
Global Look Press, Archive神経質かつ劣等感に苛まれたドストエフスキーは、しばしば娼婦に走った。そのことでひどく自責し、病気を怖れ、それでも止められなかった。「私はあまりに自堕落で、まともに生きることはできない」と、兄に書き送っている。
ドストエフスキーの最初の妻は、シベリア流刑中に知り合ったマリヤ・イサーエワ。マリヤにとっては2度目の結婚で、彼女に惚れこんでいた若き作家を式までに散々にからかった。もっと裕福な男との結婚を選ぶとまで言って脅したが、結局は、打ちひしがれたドストエフスキーを憐れんで結婚した。
しかし結婚生活は短く、ドストエフスキーにとっては辛いものだった。お互いに深く愛し合っていたが、幸福ではなかった、と彼は書いている。加えて、ドストエフスキーはこの頃、てんかんが悪化していた。マリヤは結核を患って39歳で亡くなった。
1862年、ドストエフスキーは欧州の保養地に療養に向かった。しかし、ミネラル鉱泉や泥セラピーに親しむ代わりに、ルーレットにのめり込んでしまった。そして長時間ともに過ごした相手は、「悪魔的な女性」、自由奔放なアポリナーリア・スースロワだった。2人の関係性は複雑で神経をすり減らすもので、彼女はドストエフスキーに優しく接したかと思えば、邪見にもした。しかしよく知られているように、ドストエフスキーは苦難を好んだ。2人の関係は小説『賭博者』に反映されている。
ドストエフスキーの最後の妻は、アンナ・スニトキナ。ちょうど『賭博者』の執筆中、ドストエフスキーは作業効率化のために彼女を速記者として雇った。アンナはドストエフスキーより25歳年下だったが、1867年に2人は結婚した。2人は4人の子供をもうけたが、ドストエフスキーは若い妻に対する嫉妬に苦しみ続けた。
マクシム・ゴーリキー、エカテリーナ・ペシュコワ、マリヤ・アンドレーエワ、マリヤ・ブドベルク
TASS, Sputnik, Public Domain, Getty Images偉大なプロレタリア作家は女性にはあまりモテなかった。若年の頃には孤独のあまり自殺未遂まで起こしている。自伝的短編『秋の一夜』でゴーリキーは性的初体験を描写しており、彼自身の体験である可能性もある。それは河岸の逆さになったボートの下で、娼婦相手だった。
ゴーリキーの公式の妻は、エカテリーナ・ペシュコワ(ゴーリキーの本姓を名乗っていた)ただ1人だった。
一方、彼はモスクワ芸術座の女優マリヤ・アンドレーエワと15年にわたって関係を持った。彼女は富豪でメセナのサッヴァ・モロゾフのもとを去ってゴーリキーを選んだ。モロゾフとゴーリキーは友人同士だったが、どういうわけかモロゾフは恨まず、その後もアンドレーエワを経済的に支援し続けた。
ゴーリキーとアンドレーエワはともにアメリカに出かけたが、2人が正式な夫婦ではなく、ゴーリキーの本当の妻はロシアに残されていることをマスコミが暴き、スキャンダルになった。ピューリタンのアメリカ人たちは2人をホテルから追い出し、他のホテルも宿泊を拒否した。
もう1人、ゴーリキーにまつわる女性で興味深いのは、マリヤ・ブドベルクである。彼女は英国情報部とNKVDの二重スパイだとの噂もあった。ゴーリキーと別れて後は、長い間ハーバート・ウェルズと懇意であった。彼女はゴーリキー宅でウェルズと知り合っていた。
セルゲイ・エセーニン、ガリーナ・ベニスラフスカヤ、イサドラ・ダンカン、ジナイダ・ライフ
TASS, Global Look Press, Public Domain, Getty Imagesロシアの素朴な「悪童」は、大きな心を持っていた。惚れるとなれば全力で惚れ、しかし冷めるのもまた早かった。まだ一介の農民の子だった若年の頃、夜な夜な、彼の村の屋敷に住んでいた地主貴族の女性リディア・カーシナの部屋に忍び込んでいた。事実婚による最初の妻とは18歳で結婚し、男児1人をもうけた。
3年後の1917年、女優のジナイダ・ライフと結婚する。男女1児ずつもうけたが、2度目の妊娠中、エセーニンはライフを捨ててしまう。子供達は、ライフと再婚した演出家フセヴォロド・メイエルホリドが養育した。
その後、エセーニンは文学秘書のガリーナ・ベニスラフスカヤのもとで暮らした。2人の関係性については、不明な点も多い。しかし、ガリーナがエセーニンを生涯愛したのは確かだ。エセーニンの死の翌年、その墓前で彼女は自殺を遂げている。
1921年、エセーニンはアメリカのダンサー、イサドラ・ダンカンと知り合う。ダンカンはエセーニンより20歳近く年上であり、彼女はロシア語を、彼は英語を話せなかったが、翌年2人は結婚する。ダンカンとともにヨーロッパとアメリカを渡り歩いたエセーニンだったが、彼女の名声と、その名声の影に隠れる自分を気に病んだ。激情や騒動の絶えなかった結婚生活は2年近く続いた。
1925年、エセーニンはレフ・トルストイの孫ソフィアと結婚する。しかし結婚生活は不幸で、長続きしなかった。エセーニンの自殺説を支持する者は、その主要な原因は孤独にあったと考えている。
(なお、ダンカンとソフィアとの結婚の間に、翻訳家で詩人のナジェージダ・ヴォーリピンもエセーニンの子を産んでいる)
アンナ・アフマートワ、ニコライ・プーニン、ニコライ・グミリョフ、アメデオ・モディリアーニ
Getty Images, ru.openlist.wiki, Getty Images, Public Domainロシア最高の女流詩人は恋多き人で、その点ではエセーニンにも負けていない(なお、エセーニン自身もアフマートワに女性としての興味を抱き、非常に会いたがっていたが、あいにく当時彼女は別の人物に恋していた)。
アフマートワの最初の夫は、詩人のニコライ・グミリョフだった。2人とも、いわゆる「銀の時代」の偉大な詩人であり、同じサークルに属していた。2人の間に生まれたレフ・グミリョフは、後に民族誌学者として大成する。
ハネムーンをヨーロッパで過ごした2人だったが、この時、アフマートワは画家のアメデオ・モディリアーニと懇意になりすぎた。アフマートワは後年、モディリアーニとはあくまで友人同士であったと主張したが、しかし彼女とモディリアーニの近い関係は長く続き、モディリアーニのヌードモデルも務めている。
グミリョフとの関係は、次第に自由なものになっていった。彼女は恋をし、彼もまた浮名を流した。アフマートワと画家のボリス・アンレプとの仲も大いに噂になったが、アフマートワが彼に捧げた数多くの恋愛詩以外に証拠は無い。一方アンレプは、ロンドンのナショナル・ギャラリー入口の有名なモザイク画に、彼女の姿を残している。
8年間の結婚生活ののち、1918年、アフマートワとグミリョフは離婚。既に別居生活も長かったが、実際に離婚と再婚が可能になったのは革命後であった。同年、アフマートワはもう一人の詩人、ヴラジーミル・シレイコと結婚する。しかし1921年に2人は別れる。同じく1921年の夏にニコライ・グミリョフは反革命テロルに加担した容疑で銃殺された。
1922年、アフマートワは批評家のニコライ・プーニンと事実婚になった。なお、シレイコと正式に離婚したのは、ようやく1926年になってからである。アフマートワとプーニンもやがて別れるが、最も安定して長く続いた関係だった。
1939年からしばらく、アフマートワは病理学者のヴラジーミル・ガルシンに求愛されたが、戦争が始まると、レニングラード包囲戦と疎開が2人の関係を妨害してしまう。疎開から戻った後、アフマートワはガルシンと関係を絶った。
マリーナ・ツヴェターエワ、ソフィヤ・パルノク、セルゲイ・エフロン、ボリス・パステルナーク
Getty Images, Public Domain, Global Look Pressマリーナ・ツヴェターエワが夫のセルゲイ・エフロンと出会ったのはクリミア、詩人マクシミリアン・ヴォローシン宅だった。そこは当時、様々なクリエイターが集う場所で、内戦中は彼らの避難所でもあった。ツヴェターエワとエフロンは1912年に結婚、娘のアリアドナも生まれた。
1914年にツヴェターエワは夫のもとを去り、その後2年間、翻訳家のソフィヤ・パルノクと「懇意に」していた。2人の女性のロマンスは一時の幻影だったのか、やがてツヴェターエワは夫のもとに戻った。
「銀の時代」のもう1人の巨星オシップ・マンデリシュタームとの短いロマンスも知られている。この関係はお互いの人生に大きな影響は残さなかったようであるが、マンデリシュタームがサンクトペテルブルクから、ツヴェターエワのいるモスクワに移ってきたことは、2人の詩作に反映された。
夫のエフロンは内戦時に白軍側で活動していた。2人の次女イリーナは1920年に養育施設において3歳で死亡した。ツヴェターエワは娘の安全を考えて施設に預けたのだが、死因は餓死だった。
やがてプラハに移ったツヴェターエワはエフロンの親友、コンスタンチン・ロドゼーヴィチとのロマンスに至ったが、やがてロドゼーヴィチが別の女性と結婚して、関係は終了した。
1926年、ロシア文学史上最も奇妙な書簡上のロマンスが始まった。ボリス・パステルナーク、マリーナ・ツヴェターエワ、そしてオーストリアの詩人ライナー・マリア・リルケの3人の間の書簡のやりとりである。リルケは同年死去するが、ツヴェターエワとパステルナークの往復書簡は続いた。『ドクトル・ジバゴ』の作者とツヴェターエワが実際に対面したのは一度のみで、ツヴェターエワはパステルナークに特に印象を残さなかったようだ。
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