スターリンに処刑された革命的舞台監督フセヴォロド・メイエルホリド

G. Scherbakov/Sputnik; Central archive of Russia's FSB
 フセヴォロド・メイエルホリドは、大いなる矛盾を抱えながら20世紀の演劇を動かし、揺さぶった。演劇界に対する彼の影響は、文学界に対するドストエフスキーの影響に匹敵すると言っても過言ではない。

 1939年6月20日の朝6時ほど酷い時はなかった。世間に絶賛されたロシアの舞台監督フセヴォロド・メイエルホリドの家の扉が叩かれたのだ。65歳の芸術家は困惑して女優の妻ジナイダ・ライフと顔を見合わせた。こんな時間に客人が来るとは予想していなかったからだ。メイエルホリドは扉を開け、3人の人物を家に入れた。彼らは捜索令状と逮捕状を見せた。これはもう確定事項だった。

 しかし、別の未来もあり得た。もしメイエルホリドが友人コンスタンチン・スタニスラフスキーの最も優秀な弟子ミハイル・チェーホフの忠告を聞いていれば。劇作家アントン・チェーホフの甥ミハイルはボリシェヴィキ革命を受け入れず、共産主義体制に反発して西側に亡命していた。その回想録において彼は、1930年にベルリンでメイエルホリドと会った時のことを述懐している。

 「私は、もし彼がソ連に戻れば、悲劇的な最期が待っているだろうという自分の感覚、正確には予感を彼に伝えようとした」とチェーホフは綴っている。メイエルホリドはこう答えた。「ギムナジウム時代から、私は革命を心に抱き続けてきた。常にその極端で過激な形で。私には、君が正しく、私の最期が君の言う通りになるだろうと分かっている。だが私はソ連に戻る。なぜか? 純粋な誠意からだ」。

 メイエルホリドは役者として、監督として、教師として、そして異端の改革者として生涯を芸術に捧げた。彼は複雑な人間で、安易に劇場の雑談で語り切れるような人物ではない。セルゲイ・エイゼンシュテイン(『戦艦ポチョムキン』を制作した天才監督)によれば、メイエルホリドはある意味でチャールズ・チャップリンよりも良い役者だったという。

ドミトリー・ショスタコーヴィチ、ウラジーミル・マヤコフスキー、フセヴォロド・メイエルホリド、1929年

 彼はどうも気性が荒く、自己中心的なふるまいから友達ができにくかったようだ。メイエルホリドはロシアの偉大な詩人アレクサンドル・ブロークと作曲家アレクサンドル・スクリャービンを称賛しており、ウラジーミル・マヤコフスキーやドミトリー・ショスタコーヴィチとも手を組み、パブロ・ピカソと共同で仕事をする計画もあった。数ヶ国語を操り、ヴァイオリンやピアノをプロのように弾き、楽譜のような演劇を作ることを夢見ていた。

 

幼少期と青年期

 メイエルホリドは小さな町ペンザで裕福なドイツ人家庭に生まれた。父親はウォッカの蒸留所を所有していた。カール・カジミール・テオドール・マイアーホルトとして生まれた彼には、5人の兄弟と2人の姉妹がいた。21歳でロシア正教会に改宗し、名前もフセヴォロド・エミリエヴィチ・メイエルホリドに変えた。ファーストネームはお気に入りの作家フセヴォロド・ガルシンから取ったものだ。ガルシンはその短く悲劇的な生涯を苦痛と自殺で終えた人物だ。

 メイエルホリドは一年法律を学んだが、それから演劇に没頭した。1896年、彼はモスクワ交響楽協会の演劇音楽学校に入学し、ウラジーミル・ネミロヴィチ=ダンチェンコの指導を受けた。卒業後、フセヴォロドは創設間もないモスクワ芸術座の団員となった。

モスクワ芸術座の舞台でヴァシーリー・シュイスキーの役を演じるフセヴォロド・メイエルホリド

 彼は4シーズンで18の役を演じた。舞台を席巻し、アントン・チェーホフの古典的な戯曲『かもめ』や『三人姉妹』、シェイクスピアの喜劇『ヴェニスの商人』や『十二夜』など数多くの劇に出演した。

 1902年、メイエルホリドは芸術座を去り、「新演劇組合」として知られることになる自身の劇団を作った。メイエルホリドは監督から役者、興行主まで一人で何役もこなし、約100回の公演で数十の役を演じた。1902年から1905年までに彼は200ほどの劇を公演した。

 

ソビエト時代

 メイエルホリドは1917年の革命を歓迎し、役者としていち早くボリシェヴィキの党に参加した。1920年代前半、彼は自身の劇場を立ち上げて運営することを許可された。この劇場は1938年まで存続した。メイエルホリドは自身の劇団員とともに世界を回り、英国やドイツ、フランス、イタリアで公演を行った。また、メイエルホリドは映画の撮影にも挑戦し、『ドリアン・グレイの肖像』(1915年)や『強い人』(1916年)では監督と主演を務めた。

 最も称賛される共産主義の監督の一人となったメイエルホリドだったが、1934年以降、スターリンの機嫌を損うようになった。ソ連指導者は、とりわけメイエルホリドの『椿姫』の舞台が気に食わなかった。詩人セルゲイ・エセーニンの元妻を出演させたためだ。批判に対し、痛烈な毒舌で知られるジナイダ・ライフはスターリンに宛てて手紙をしたためた。彼女は、歯に衣着せず、スターリンは芸術の専門家ではないし、もしそうなりたいならメイエルホリドと話さなければならないと綴った。スターリンは返事をしなかったが、この出来事を決して忘れなかった。批判はエスカレートしていった。メイエルホリドの創作活動は間もなくソビエト人民に対して敵対的であると宣言された。先駆的な舞台監督はおそらく迫りくる問題を予見していたが、彼はまだ、自分の評判と名声、共産主義に対する忠誠心が、その先の問題から自分を守ってくれるだろうと信じていた。

イワン雷帝の役を演じるフセヴォロド・メイエルホリド

 問題はメイエルホリドが型にはまった考え方を拒んだことだった。彼は大げさな装飾を取り除き、劇の衣装デザインを簡略化し、劇場のカーテンを外した。演者の化粧も薄かった。また、彼は演技の特別な練習法を開発した。いわゆる「ビオメハニカ」(直訳は「生体力学」)で、構成主義の考え方が応用されていた。彼の考えでは、役者はその体と声の可能性を通して観客に作用しなければならなかった。メイエルホリドは演劇の伝統主義の原理から脱し、自身の実験的な演劇を幾何学的な正確さ、曲芸的な軽さ、前衛的な詩学で味付けした。彼の演劇は形式に従わず、あまりに型破りで、全体主義体制を満足させるものではなかった。形式と内容の両面における演劇の劇的な革新だった。

 メイエルホリドの劇場が閉鎖されると、彼に寛大な救いの手を差し伸べたのが、他ならぬコンスタンチン・スタニスラフスキー(あるオペラ劇場のトップだった)で、フセヴォロドを助手として招き入れた。メイエルホリドはスタニスラフスキーの「システム」と「自然主義」を激しく批判していたが、一年近く彼の劇場を主導した。メイエルホリドの面倒を見ることはスタニスラフスキーの宿願だった。「彼は劇場で唯一の私の後継者だ」。

 

悲劇的な最期

 1939年の夏の盛り、メイエルホリドはレニングラードのアパートで逮捕され、モスクワのルビャンカの拘置所に連行された。「私はうつ伏せにされた。彼らは私の足の裏と背中をゴム紐で打った。彼らは私を椅子に座らせ、上から私の足を打った」と彼は人民委員会議の議長ヴャチェスラフ・モロトフに宛てた手紙に綴っている。

 演劇監督はトロツキー支持者として晒し上げられた(ソ連の創設者の一人レフ・トロツキーはスターリンの政敵で、当時は亡命してメキシコにいたが、その後の1940年、ピッケルで武装したスターリン支持者によって暗殺された)。さらに、メイエルホリドは日本の情報機関に協力してスパイ活動を行っていると疑われた。拷問を受けた彼は罪を認めざるを得なかった。

 しかし、全体主義体制の魔の手はさらに伸びていった。「社会主義リアリズム」のルールは演劇だけでなく、日常にも適用されたからだ。逮捕から3週間後、何者かが彼のアパートに押し入って妻のジナイダを刃物で残忍に刺した。彼女は致命傷を受けて死亡した。一方のメイエルホリドは死刑判決を受けて1940年に銃殺され、遺体は火葬されてモスクワのドンスコエ墓地の墓標のない集団墓地に埋められた。共産主義に対する信念を捨てることを拒んだ男は、1955年に名誉を回復された。

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