エセーニンと「神話創造」:彼はいかに愛国詩人となったか

セルゲイ・エセーニン、1916年(左)、1924年(右)

セルゲイ・エセーニン、1916年(左)、1924年(右)

Russia Beyond (Lev Ivanov, Sputnik)
 1895年の今日、20世紀ロシアを代表する詩人のひとりであるセルゲイ・エセーニンが生まれた。エセーニンは、ロシア最高の詩人と自認したが、自分自身の居場所を見つけることはついにできなかった。彼は何者だろうか――田舎の青年、悪戯好き、あるいは名声を求める狡賢い人?

 田舎の若者が、巨大都市サンクトペテルブルクにやって来た――貧農の装いで、みすぼらしい鞄一つをぶら下げて。駅から真っすぐ、彼は、自分の「偶像」のところへ、つまり今を時めく大詩人、アレクサンドル・ブロークの住まいを探しに、出かけた。ただ彼に会うためだけに…。

 しかしこれは、セルゲイ・エセーニンが自分についてつくり出した多くの神話の一つにすぎない。20世紀初頭、ロシアの詩壇は才能に溢れていた(もちろん、三文詩人も…)。有名になるには、トリックや神話づくりに頼ることも必要で、ときには一種の「カーニバル」さえ演じねばならなかった。こういう事情でエセーニンは、「農民の天才詩人」なるイメージをつくり出したのだった。 

大いなる神話創造者

「新手の農村詩人」:セルゲイ・エセーニン(右)とニコライ・クリュエフ、1915年

 実際、エセーニンは農村出身だが、生家は決して貧しくはなく、彼はきちんとした服装をしていた。良い教育も受けている。サンクトペテルブルクに来る前に彼は、モスクワに数年間住み、そこで聴講生として公立学校に通い、印刷所で働いていた。しかも、彼の詩はもう雑誌に掲載されていた。初期に出版された詩の一つは、ロシアの子供なら誰でも暗記している。その冒頭は――

 

真白き白樺よ

わが窓の下で

白雪で覆われた

白銀さながらに。

 

 白樺、野原、黄金のライ麦、「赤らんだナナカマドの焚火」、「黄金の果樹園」をロシア人がみな愛するようになったのは、エセーニンがきっかけだろう。彼はロシアを「白樺の更紗の国」と呼んだ。故郷、その広大無辺さ、田園風景のテーマは、彼の詩に一貫しており、常にノスタルジーをともなっている。

 なるほど、彼はモスクワとサンクトペテルブルクに住んだ。それでも彼は、自分のこじんまりした故郷が懐かしい。19世紀の貴族出身の詩人たちは、自然をそのように描きはしなかった。褒め称えはしたが、こんなに胸がうずくようにうたいはしなかった。

 たしかにエセーニンは、サンクトペテルブルクにブロークを訪ねたが、予め訪問を告げる丁寧な手紙を送っていた。ブロークは彼に会った後、日記にこんなメモを残した。

  「リャザン県の農民。19歳。詩は新鮮で美しく、何というか声高で饒舌だ。独特の言葉がある。1915年3月9日に来訪」

セルゲイ・エセーニン(左)、セルゲイ・ゴロデツキー(右)、1916年

 エセーニンの友人、アナトリー・マリエンゴフは、友から聞いたとして、「エセーニンはそんな農民の服を着たことは一度もない」と書いている。

 「僕は、こんなに赤いブーツを履いたことはないし、ボロボロの上着も着たことはない――そんな恰好で人前に出たと言われているが」。「あと世界的に有名な青銅の記念碑(ピョートル大帝像)を見物にサンクトペテルブルクにやって来たとか言われているが(それも出まかせさ)」。

 とはいえ、彼は十二分に名声を得た。エセーニンを愛好することは、今でも愛国者の間で流行っている。 

遊び好きで騒動を起こす

 1918~19年、エセーニンは、いわゆるイマジズムの、奇矯な振る舞いで有名な詩人たちに近づいた。素朴な田舎者は、「フーリガン」、「モスクワの悪童」になり、田舎の服は、燕尾服、シルクハット、ステッキにかわる。そして、詩のなかで彼は、「モスクワの居酒屋」を賞賛し、自分の「けんかっ早い」評判について語る。

 ところがこんどは、エセーニンの詩の上のイメージが、実生活に持ち込まれていく。彼は実際に、酒をたらふく飲み、居酒屋を渡り歩いて、スキャンダルを引き起こし、喧嘩を始めたりして、その方面でも「定評」を得る。

セルゲイ・エセーニン、アナトリー・マリエンゴフ、1923年

 しかし彼は、やはり憂鬱を免れない。この不幸な遊び人は、故郷を懐かしみ、自分の自堕落な生活を罵る。まるで自分を見失ったようだが、「愛」が彼を救うことができる、と詩のなかで仄めかす。

 そして若き詩人は、「愛」を血眼で探す。彼の女性関係は乱脈だ。何度か結婚に失敗し、何人かの子供が捨てられ、何人かの女性が心を砕かれた。

 そのなかには、有名なアメリカ人ダンサー、イサドラ・ダンカンもいた。彼女の欧米での公演に彼は同行したが、有名な彼女の添え物にすぎぬことに耐えられず、間もなく二人の関係は終わりを告げた。

セルゲイ・エセーニン、1924年

 エセーニンの最後の妻は、文豪レフ・トルストイの孫娘ソフィアだった。長年、何人もの女性と関係した後で、彼はガリーナ・ベニスラフスカヤのもとに戻る。彼女は、この詩人の秘書で、彼に片思いしていた。彼の死後に彼女は、彼の墓前で自殺することになる。

 「酔いどれの懺悔」のなかで彼は、自分はわざと奇矯な振る舞いに及び、それで罵られるのが好きなんだ、と書いている。彼は再び、故郷への愛を激白し、村の老人たちに目を向ける――はたしてあなた方は、「自分の息子がロシア最高の詩人だ」と知っているのだろうか、と。

最もロシア的な詩人

 エセーニンは、モスクワで革命に際会するが、革命そのものについては、ほとんど語らないか、語るとしても慎重だ。彼は、大事件の渦中にあって茫然自失し、またも痛飲し、ギターを弾かせ、ロマの女性に歌わせて、我を忘れたい、ひどい日々を忘れ去りたい、と思っていたようだ。そのせいで彼は、しばしば警察に厄介になる。 

セルゲイ・エセーニン

 エセーニンは、内戦の惨禍を目の当たりにし、都市の混乱のなかで飢えと寒さを自ら体験した。しかし、内戦の帰趨は、彼にとって重要ではなかった。何よりも彼は、最愛の故郷のことで心を痛めていた。

 

母国を端から端まで、

火とサーベルを明滅させつつ、

同胞の争いが引き裂く。

 

 それでも内戦では、彼はボリシェヴィキの側に立った。ロシア革命前、彼は皇室の前で詩を朗読したこともあったが、やはり民衆を代表する者として、ソビエト政権とともにあるべきように思われた。

 1924年に彼は、「偉大な国家連合、ソ連」にふさわしい、祖国の子になりたいと書いている。しかし、彼はまた、地球上でどんな戦争が起きても、諸民族がいかに戦おうとも、自分の詩はすべて、「地球の六分の一を占めるが、名称は短い『ルーシ』をうたう」と述べている。

ロシアにおける最も謎めいた死 

 1923年の詩で彼は、自分の最期をみとってくれるであろう人たちに、こう頼んでいる。「ロシア風のシャツを自分に着せ、胸の上にイコン(聖像)を置いて、死なせてほしい」

 だが、彼の死の状況はこんなものではなかった。ロシアでは、この代表的な農村詩人がどんな状況で亡くなったかについて、一致した見解がない。

 公式の説明は自殺だ。1925年12月28日、彼がレニングラード(現サンクトペテルブルク)のアングレテール・ホテルの一室で縊死しているのが発見された。その前日、自らの血で記した詩「さらば友よ」を友人ヴォリフ・エルリフに手渡していたという(エルリフの証言によれば、エセーニンは、部屋にはインクがなかったので血で書いたと言った)。そのなかに、こんな一節があった。

 「この世で死ぬことは別に新しいことじゃない。 そして、生きていることはもちろん、それより新しいものじゃない」

 しかし1970年代に、モスクワ市刑事捜査局の捜査官の1人が、エセーニンは秘密警察によって殺害されたとの説を唱えた。自殺は、彼らによる見せかけだという。その証拠とされたのは主に、詩人の顔に血腫があったことだ(それは死後の写真ではっきりと見える)。これは暴力を加えられたしるしである。居酒屋での詩人の武勇伝を考えれば、殺害者たちに歯向かった可能性がある、というわけだ。

 この説は、詩人のイメージにさらにロマンティックな悲劇的色彩を加えたので、すぐさま大衆文化に取り上げられ、いくつかの映画や連ドラで、詩人の殺害が描かれた。 

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