第二次世界対戦。聖イサアク大聖堂。レニングラード、ソ連。
Global Look Pressレニングラード包囲戦中に使われたのパンの切符。1941年12月。
Ajvol撮影/Wikipedia配給の切符があれば、市民は国が管理する価格で食料を購入できた。それぞれの切符には、どれだけの量の食料品を購入できるかが示されていた。もっとも、パンは毎日買えたが、他の食品は10日に一度だけで、しかもとくに肉は不足していた。
1941年11月~12月頃が最も厳しい時期だったが、その頃までに配給量は次第に減っていった。工場などの労働者は1日に、150〜250グラムのパンの購入を許可。一般の公務員、子供、扶養家族は1日125グラムしか許されなかった。
一か月あたりの量としては、労働者とエンジニアは、1.5キロの肉、2キロのマカロニ、800グラムの脂肪(植物油またはラード)、および約1.5キロの砂糖を買えた。一方、一般の公務員は、肉800グラム、マカロニ1.5キロ、脂肪400グラム、砂糖約1.2キロを一応は当てにできた。
こういう状況だから、配給切符はまさに垂涎の的で、これを失うことは、飢餓さらには餓死に直結しかねなかった。
リトロリフレクター
共有包囲の間、レニングラードは、夜間の完全な停電を強いられた。敵空軍が上空から狙いをつけられないように、夜はすべてのライトが消された。
そこで人々は、包囲の間、レトロリフレクター(再帰反射材)――彼らはそれをもっと簡単に「ホタル」と呼んだが――を服につけ、暗い通りでお互いを見分けるようにしていた。
「ホタル」は、金属片やプラスチックを、ラジウム226から作った物質で覆ったものだ。ラジウム226は闇のなかで光る。
レニングラード包囲戦(1941年9月8日ー1944月1月27日)。飢餓で弱った夫をそりで運んでいる女性。
イズライル・オゼルスキー撮影/Sputnik子供のおもちゃの橇は、包囲下のレニングラードで主な輸送手段になり、陰惨なシンボルともなった。包囲がとくに過酷だったのは冬季だった。経済を切り詰めたため、市内交通は機能しなかった。そこで人々は、橇を使って私物を輸送し、…死体を埋葬地に運んだ。
教師のソフィア・サゴフスカヤさんは当時をこう振り返る。「まるで夢に出てくる魔物の獣さながらに、路面電車は氷に覆われて立っている。引き裂かれたケーブルの長い白い糸がぶら下がっている。午前中は、白い囲い板で覆われた、死体を載せた橇の長い行列が行く」
封鎖を生き残った人の多くは、橇が恐ろしい戦いの時代を思い起こさせると言っている。
接着剤、セルロース、松葉、靴底、革のベルト、その他雑多なものが――もしそれが有機物を含み食べられるものならば何でも――包囲の間、食料として利用された。
こうした製品は最初、市内のいくつかの工場やプラントから回収された。造船台に塗るラードやワセリン、骨から抽出したゼラチン、さらには有機物による靴墨…。人々はこれらすべてを調理する方法を見つけた。
膠、ゼラチンをゆっくり火で数時間煮沸し(臭いは耐え難かった)、塩、コショウ、香辛料、酢、マスタードを加えて悪臭を消した。
氷った通りでレニングラードの住民たちが壊れた水道から水を取っている。
ヴィセヴォロド・タラセヴィチ撮影/Sputnikレニングラードを占領しようとしたドイツ軍はまず第一に、街の水道を爆撃した。1942年までに水道が遮断されたため、市民は運河と川から水を得た。
「氷穴の脇でひざまずいてバケツで水を掬った…。バケツを家に持ち帰ると、水は凍っていた。私たちはそれを家で解凍した。水は汚かったので、煮沸した」。封鎖を生き延びたある人はこう回想している。
「料理のために少し、洗濯にも少し。私たちは頻繁に水を汲まなければならなかった。滑りやすいので、川岸から氷の穴まで行くのは大変だった。人々は(飢えのせいで)衰弱していたから。水をバケツにいっぱい掬っても引き上げられないことがあった。水をこぼしながらも、私たちはお互いに助け合って岸の上に這い上がった」
レニングラード包囲戦。身分証明書の確認。
Sergey Strunnikov撮影/Wikipedia包囲下の最悪の日々、レニングラードの路上には1500を超えるスピーカーが設置されていた。 それらはラジオ番組を放送し、空襲と砲撃について人々に警告した。包囲の間になされた警報は計3740回に及んだ。
また、メトロノームの音も放送された。その速度が遅いときは、「まだ間がある」を意味した。速い時には、まさに砲撃が開始されようとしているという合図で、「全員退避せよ」の警報だった。
しかし同時に、スピーカーは管弦楽を放送し、女流詩人のオリガ・ベルゴーリツやアンナ・アフマートワなどは自作の詩を朗読して、人々を鼓舞しようとした。今日も、目抜き通りのネフスキー通り54番地に、壁面に路上スピーカーのモニュメントがある。
サンクトペテルブルクのレニングラード包囲と防衛博物館で展示されたウリツキー名称タバコ工場の戦中の商品。
アレクサンドル・デミャンチュク撮影/Sputnik食料不足が始まると、紙巻きタバコはとくに貴重になった。喫煙は空腹を耐えやすくさせ、壊血病(ビタミンCの欠乏から生じる病気)になった人々を助けると信じられていた。
市内にはタバコの葉の予備はあまりなかったので、地元のタバコ工場は、紙巻きタバコに乾燥した葉とホップを加え始めた。
1942年までには、タバコの一箱は、2~3日分のパンの配給量と同じくらい価値があった。驚くべきことに、工場は包囲の全期間を通じて操業を中止していない。
タバコで服、靴、野菜を買うことができた。包囲の間、タバコはお金より価値があったのだ。
ほとんどの子供たちが、飢餓と衰弱に耐えるために、喫煙の習慣がついた。そして、大抵の生存者が後半生を通じて喫煙し続けている。
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