詩人ツヴェターエワ生誕130年:生涯の5つの隠れた事実

 マリーナ・ツヴェターエワは、20世紀の最も影響力のある詩人の一人だが、同時に、最も難解な詩人の一人にも考えられる。ましてや、その翻訳の難しさについては言わずもがな。今年の10月8日は、詩人の生誕130年だ。それにちなんで、ここでは、非常に興味深いがしばしば見落とされがちな、彼女の生涯の事実をいくつか集めてみた。

数か国語に通じた神童

 マリーナ・ツヴェターエワは、非常に芸術的な家族に生まれた。父親イワン・ツヴェターエフはモスクワ大学教授で、美術史の専門家であり、美術の殿堂「プーシキン美術館」を創設した。母親マリア・アレクサンドロヴナは、チャイコフスキーの親友であったピアニスト、作曲家、ニコライ・ルビンシテインの最高の弟子の一人で、コンサート・ピアニストだった。

 このようにツヴェターエワは、美術と音楽に囲まれていたためか、極めて早熟な子供だった。早くも6歳で詩を書き始め、厳しいピアノ・レッスンを受けた。16歳でパリのソルボンヌ大学に学び、フランス語とドイツ語で詩を書くようになった。

 最初の詩集は、彼女が18歳のときに出版されている。成人するころには、ロシア語のほか、フランス語、ドイツ語、イタリア語で話し、読むことができた。オーストリアの詩人、作家ライナー・マリア・リルケと付き合いがあったが、文通はドイツ語だった。

母との難しい関係

マリーナ・ツブェターエワと妹アナスタシア

 ツヴェターエワの母親、マリア・アレクサンドロヴナは、失意の経験を多くなめた人だ。かつて、既婚男性を愛し、不倫の関係にあったが、後に、イワン・ツヴェターエフと結婚することを余儀なくされた。ツヴェターエフとの間に娘が二人生まれたが、マリアは実は息子を望んでいた。また、上の娘のマリーナ(ツヴェターエワ)がピアノをやめ、詩作を始めたときも、大いに失望した。

 ツヴェターエワは少女時代に、日記で母の不幸を知った。「…二人の子持ちのやもめと結婚し、子供らを不幸にする――他の男を愛し続けながら…」

 (サイモン・カーリンスキーは、1985年に書いた著書で、上のツヴェターエワの言葉を引用している。なお、本書は邦訳がある:サイモン・カーリンスキー『知られざるマリーナ・ツヴェターエワ』〈バイオグラフィー・女たちの世紀〉、晶文社)。

 カーリンスキーによると、ツヴェターエワは、自分の母親にとっては望まれない子供だったと感じており、自分が悪魔の申し子だと想像することがたびたびあったという。ツヴェターエワは3歳のときに、モスクワで「迷子になってしまいたかった」と述べている。

 彼女が14歳のとき、母親は結核で死亡。だが、母は、ツヴェターエワの回想『母と音楽』を含め、詩人の執筆と人格形成、発展において、中心をなす人物であり続けた。

バイセクシャル

マリーナ・ツヴェターエワと家族、プラハ、1925年

 ツヴェターエワは、少なくとも二人の女性と関係し、そのことはよく知られていた。最初は、詩人のソフィア・パルノークで、二人目は、女優のソフィア・エヴゲニエヴナ・ホリデイだ。ツヴェターエワは、自伝的な小説『ソーネチカの物語』で、パルノークとの関係を描いている。しばしば詩人は、日記や手紙で、性的自己同一性に対する社会の態度をあざ笑った。

 「女性は女性だけを愛し、男性は男性だけを愛すべしと言って、ふつうの関係を排除するとしたら、何と怖ろしいことだろう。また、男性だけが女性を愛することができる、あるいは女性だけが男性を愛することができると主張するなら、ふつうでない関係を、やはり同じやり方で排除することになる。何と退屈な!」(1921年6月9日)

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自殺に残る謎

フランス、1926年

 1939年、ツヴェターエワは、ほぼ20年間におよぶ亡命生活の末、モスクワに戻った。彼女とその息子ゲオルギー(しばしば 「ムル」と呼ばれる)は、娘アリアドナと、先に帰国していた夫セルゲイ・エフロンと、ようやく合流できた。

 しかし、「Oxford Companion to English Literature」によると、アリアドナの婚約者は、ソ連の秘密警察「内務人民委員部(NKVD)」のエージェントで、この一家の監視が任務だった。

 1941年8月31日、絶望的な状況のなか、ツヴェターエワは首を吊って自殺した。だが、この有名詩人が自殺した理由については、いくつかの説がある。例えば、NKVDのエージェントが彼女を訪れ、自殺を強制したという者もある。

 研究者、イルマ・クドロワは、このほかに3つの説を提示している。

 ① ツヴェターエワの妹、アナスタシアが、息子ムルを救うために、詩人が死なねばならぬと主張した。

 ② 詩人は精神疾患に苦しんでいた。

 ③ 彼女は、NKVDにリクルートされることを恐れた。       

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詩は生命の源そのもの

1925年

 ツヴェターエワの詩は、翻訳が難しいので有名だが、これは一つには、彼女の言葉に関する哲学と詩に対する態度に、その原因がある。彼女の信ずるところでは、言葉は、「物」の本質すなわち生命の精髄に、直接つながっているのだ。ノーベル文学賞を受賞した詩人ヨシフ・ブロツキーはかつてこの点を指摘したことがある。

 「彼女においては、言葉と行動、芸術と人生の間に、コンマもハイフンもなかった。彼女は両者を等号で結んだ」

 実際、ツヴェターエワは、詩は生命の源そのものであると考えていた。

詩は成長する、星と薔薇のように、

家庭に不要な美のように。

その花冠と褒め歌はどこから? —

それにはこう言うだけ。「どこからこんなものが私を訪れたの?」

私たちはまどろむ。— と、ほら、石板の隙間を通って、

四枚の花弁を身にまとった天の客が。

ああ、世界よ、分かってほしい!歌い手によって — 夢の中で — 明かされることを

星々の法則と花の定めとが。

1918年8月14日

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おまけ

 ロシアの大みそかの定番映画である『運命の皮肉』に流れるこの名曲の歌詞にツヴェターエワの詩が使用しれている。

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