モスクワ中心部の通りに立つフョードル・シェーフテリの建築物は大きく目を引く。折衷様式の屋敷には、ネオゴシック、アール・ヌーヴォー、ネオロシア様式などが取り入れられている。その中でももっとも有名なものを紹介しよう。
クズネツォフの街の邸宅
陶器工場の所有者だったマトヴェイ・クズネツォフから依頼を受けたとき、シェーフテリはすでに才能ある設計士としての名声を確立していた。彼は赤の広場にある歴史博物館の設計コンクールに参加し(もっとも、選ばれたのは、彼の設計によく似た別のものであった)、「パラディス」劇場(現在のマヤコフスキー劇場)のファサードを設計したことで知られていた。
1893年、クズネツォフは邸宅の南の離れを改築した。シェーフテリの設計により、2つの離れが組み合わされ、出窓と控えめな装飾が施された1つの邸宅になった。
1年後、シェーフテリは2つ目の依頼に着手。屋敷の近くに彼の設計したゴシック様式の家が建設された。家には尖塔型の窓、装飾の塔がつけられ、ファサードの中央の窓は英国のゴシック様式風に作られた。
邸宅も家もそれまでの住所に位置していたが、邸宅はしょっちゅう修復され、最初の姿をほぼ留めていたが、ゴシック様式の家はまったく違った建物になっている。1930年代、家には2階部分が増築され、新たなファサードで完全に囲まれたため、オリジナルの部分はまったく見えなくなった。
ジナイーダ・モロゾワの邸宅
ロシア帝国でもっとも裕福な商人の1人であった実業家のサヴァ・モロゾフが妻のジナイーダに贈るために発注した家。シェーフテリがそれまでに発表した設計の中から、モロゾフは英国のネオゴシック様式の邸宅を選んだ。彼は英国好きで知られていた。シェーフテリは2ヶ月でおよそ600の設計図を書いた。しかも外観だけでなく、内部のすべて、ドアノブや壁紙の柄までもを細かく書いた。
その内装は外観と同じくらい注目に値する。邸宅に一歩入ると、まずアーチと格間の天井のついた、青い壁紙のゴシック様式のホールがあった。壁紙には綿の箱が描かれていて、遠くから見ると百合の紋章に見えた(モロゾフが繊維工場の所有者であったことを仄めかしている)。
内装には主に暗い色の樫が使われ、窓には形も大きさも違うステンドグラスが張られた。メインの暖炉には鎧を着て盾を持った2人の騎士が描かれていた。
この邸宅の建設作業はシェーフテリのキャリアにおいて大きな転換期となった。この邸宅で用いられた斬新な手法は、シェーフテリ独自の設計スタイルの確立に向けた最後の特徴となったのである。20世紀初頭、建物の入り口は出来るだけ通りに近く作られるのが一般的であったが、この家は敷地の真ん中に建てられた。内装はわざと天井につくほど大きく作られ、それが記念碑的な効果を生んでいる。
しかし、それだけではない。この建物のおかげで、シェーフテリは独自に建設事業を行う権利を得たのである(彼には建築家としての卒業証書を持っていなかった)。彼はこの邸宅の設計図を、資格獲得の試験用の作品として提出した。他でもないこのモロゾフの邸宅の建設を機に、シェーフテリは有名になり、人気を獲得した。
リャブシンスキーの邸宅
邸宅は実業家で銀行家のステパン・リャブシンスキーの依頼により建設された。邸宅はアール・ヌーヴォー様式で作られている。なめらかな曲線の輪郭、丸みを帯びた形、ファサードはモザイク画と上塗りが施されたレンガでできている。
内装もファサードにまったく劣らない。中には波の形をした荘厳な階段があり、絵が描かれた天井とステンドグラスが付いている。もっとも興味深い部屋は、2階に隠された祈祷のための部屋。細長い窓にアーチ型の天井、壁には正教会の内装に欠かせないものが描かれている。
しかしながら、この邸宅を誰もが気に入ったわけではなかった。児童作家のコルネイ・チュコフスキーはこの家について、「デカダンスタイルの最悪の家。真っ直ぐな線が1本もなく、直角が1つもない!」と酷評した。
この邸宅の建設と並行して、シェーフテリはモスクワにあるヤロスラフスキー駅の修復作業にも従事していた。このヤロスラフスキー駅は、ネオロシア様式とアール・ヌーヴォー、古代ロシア建築が融合した最高傑作と評されているものである。
デロジンスカヤ=ジミナの邸宅
邸宅が建てられた土地を1901年に買ったのは織布工場の所有者イワン・ブチコフの娘、アレクサンドラ・デロジンスカヤである。デロジンスカヤは自分自身と新たな夫のために邸宅を建てることにし、人気の設計士シェーフテリに依頼した。
ファサードで最も目立った部位は、スタッコ仕上げの壮大な枠のついた長さ11メートルものパノラマの窓であった。巨大な窓の向こうには、アダムとイヴの彫刻が施された大理石が張られた大きな暖炉のある客間が隠れていた。シェーフテリは、客間の壁の上半分に季節をテーマにしたフレスコ画を飾ろうと考えていたが、デロジンスカヤは費用を抑えるため、その提案を却下し、フレスコ画の代わりにシンプルな白い漆喰を塗った。
設計が素晴らしかったこと以外に、この家には電話、電気、水道、換気扇など、当時はまだモスクワの住宅では一般的ではなかった最新の技術が用いられたことでも大きく注目された。
スミルノフの邸宅
ウォッカのブランド「Smirnoff」の創始者でロシア帝国のウォッカ王と呼ばれたピョートル・スミルノフの息子であるピョートルは、1900年、アンピール様式の邸宅を購入したが、これが気に入らなかったため、シェーフテリに改築を依頼した。
シェーフテリの手にかかれば、アンピール様式がモダン様式になったが、それは外観だけであった。ファサードは大きく変更され、窓は長くて丸みのあるものになり、出窓がつけられた。
シェーフテリは邸宅の中に、スタイルの異なる8つの部屋を作った。ロマネスクの部屋は埋れ木で作られ、天井には神話の生きものとケルトの模様が描かれ、暖炉には騎士の戦いの彫刻が刻まれた。クラシック様式の部屋は後期ルネッサンス調に仕上げられ、緑の大理石で作られた暖炉が飾られ、天井には神話の生物が描かれた。
ちなみにこの邸宅の建設と並行して、シェーフテリはサヴァ・モロゾフの依頼によって、チェーホフ記念モスクワ芸術座(当時は単にモスクワ芸術座と呼ばれていた)の建物の修復作業にも関わっていた
芸術のパトロンとして知られたモロゾフはこの建物の修復に約30万ルーブルという資金を投じたが、シェーフテリは1ルーブルも受け取らなかった。彼も自身の芸術への愛から、無報酬でこの依頼を受けたのである。ファサードは完全に作り直され、シェーフテリは、劇場のシンボルともなった緞帳にいたるすべてを設計した。