モスクワの赤の広場:最近100年で起きたこと

マルチメディア・アート・ミュージアム/russiainphoto.ru
 毎年、何万もの観光客がモスクワの「赤の広場」訪れているが、果たして具体的に何人が訪れたのか、どんな賓客が来訪したか、トランスポーテーションにどんな革新が起きているか、知る人は少ない。でも、ご心配しなく!ロシア・ビヨンドがお伝えしよう。

 既に1世紀前から、モスクワの「赤の広場」には、ドミトリー・ポジャルスキー公と商人クジマ・ミーニンの名高い記念碑があった。 この二人は、17世紀初めにポーランド軍の干渉や内乱で四分五裂した当時のロシアにあって、国民に決起を呼びかけ、義勇軍を組織し、1612年にモスクワを解放した。それを記念して、このモニュメントが1818年に建立され、除幕式が行われている。

 しかし、1900年代に撮影された上の写真を見ると、それは今の場所にはない!現在それは、聖ワシリイ大聖堂のすぐ隣にあるのだが…。実は当時は、グム百貨店のすぐ前に置かれていたのだ。ところが、ソ連のパレードやデモのためのスペースを増やすため、1931年に移動されたのだった。

 100年前、20世紀を迎えるころには、赤の広場は、従来の商いの場、市場というよりは、公のイベントを催したり、午後の散歩を楽しんだりする場所となってきた。1892年に市当局は、この1900年代の写真に見えるように、電灯を設置している。

 もう一つ興味深いのは、馬車以外に、路面電車もここを通り、広場がその線路で二分されていたことだ! それは1909年に敷設されたが、当然のことながら、大きな議論を呼び起こし、ついに1930年に撤去された。

 今では想像しにくいが、1914年には消防設備もここで公開されている。まあ、そんなに面白くなかっただろうが…。

 1917年の10月革命の後、赤の広場は、公式の祝典と議論の場になった。最初のイベントは、1918年のメーデーだった。その翌年には、広場で、赤軍の最初のパレードが行われ、新国家の指導者、ウラジーミル・レーニンがトラックの上から国民に向けて演説した(上)。

 その後、軍事パレードは、11月7日の10月革命の年次祝典に不可欠となった。1923年にパレードは、初めて空中から撮影された。

 しかし1945年以降は、赤の広場は、大祖国戦争(独ソ戦)でのナチスドイツに対するソ連の勝利を毎年祝う、その主な会場になった。パレード、花火、そして国民の一致団結の圧倒的な感覚が、以来ずっとここに残っている。過去数十年間にどれだけの人々がこのパレードに参加したのか、想像してみてほしい!

 5月1日(メーデー)と5月9日(戦勝記念日)のパレードは、公式行事となった。ソ連周辺のメディアの支局は、これらをライブで放送した。

 これらの行事の日程は、歳月が経ってもあまり変わらなかった。例えば、5月1日には、こんなプログラムが普通だった。人々が、旗や指導者を称賛するポスターを掲げつつ、広場をパレードする。代表者が、その人々を褒め称える挨拶をする。そして政府関係者は静粛に起立したまま、代表者のあいさつに耳を傾ける、というぐあいだった。

 

 赤の広場は、ソ連の指導者の埋葬地にもなった。1924年以来、レーニンはここで永遠の眠りについている。そのほか、1984年までに、400人以上がクレムリンの壁際に埋葬された。それらは、ソ連共産党の指導者だけでなく、例えば宇宙飛行士のような、傑出した人物も含まれていた。

 ソ連崩壊の後、赤の広場は、よりオープンになり、公式のセレモニー以外のときでもにぎわうようになった。欧米の多くのミュージシャンがコンサートを行い、また、ロシアの指導者が他の国々の首脳とここで会見している。例えば、1994年、英国のエリザベス2世がロシアを訪問したが、これはロシアの共産主義の過去との訣別を画するできごとになった。

 赤の広場の歴史に残る、これらの思い出深いひと時により、この広場は、ロシア人自身に、そして訪問者に最も愛される場所の一つとなっている。その歴史はここの空気に漂っており、誰かが訪れて呼吸するのを待っている!

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