ロシアの詩人、ウラジーミル・マヤコフスキーが最初のヒップホップのスターだったと言える5つの理由

ナタリヤ・ノソワ
 ロシアの文化大臣がマヤコフスキーは「最初のラッパー」であると言った。物議を醸しだすような意見だが、的を射ていることは確かである。

 もちろん、マヤコフスキーはラッパーではない。彼はそんな技法についてを知るはずもなかった(1910年代~1920年代当時は誰も知らなかった)し、彼の詩を大きな声で読んでもラップにはならない。しかし、よく見てみると、ロシア連邦文化大臣ウラジーミル・メジンスキーの言うことは的はずれではない。ある意味、マヤコフスキーは、ギャングスタと言えるかもしれない。

1.マヤコフスキーの詩はラップに合う

ベルベットのウェストコートを着ているウラジーミル・マヤコフスキー。

 マヤコフスキーの詩はラップするのが簡単。行を短く、鋭く分断するために、挿入句を繰り返し使うというのが彼のスタイルである。これがロシア語では超カッコいい響きを生み出す。英語訳でも、彼の詩がいかにラップ風であるかを伺い知ることはできるだろう。

(ズボンをはいた雲からの抜粋、訳:アンドレイ・クネラー)

 マヤコフスキーを「最初のラッパー」と呼んでいるのはメディンスキー大臣だけではない。MCたちがマヤコフスキーの詩を切れ切れに大声で叫ぶとき、そのオリジナルを知らないと、最新のヒップホップかマヤコフスキーの詩が判別できない。もちろん、ロシアのヒップホップがマヤコフスキーの詩よりリリカルであることはほぼないのだが。

2.若者のように法律と闘った

 ヒップホップのスターたちはしばしば法的なトラブルに見舞われる。マヤコフスキーもそうだった。社会主義活動に身を投じ、1908年にボリシェヴィキに加わった。数か月の間、マヤコフスキーと同志たちはモスクワで反帝政主義活動を行った。例えば、女子監獄からのロシア史上最大の脱走劇を先導した。

 マヤコフスキーの裁判では、法律が勝利し、この若き革命家は捕われ、11か月の間収監された。しかしまだ若いということで、それ以上のお咎めはなかった。

 マヤコフスキーの伝記の著者である、ドミトリー・バイコフによると、この時代は自由を愛するマヤコフスキーにとっても試練の時であった。「彼は監獄に再び入れられるようなことはしないと考えたことは明らかだ」。それからは、マヤコフスキーは憎むべき帝政主義に韻文の中で反対するようになっていったのだ。

3.おしゃれで豪勢な生活

リーリャ・ブリーク。1929年。「マヤコフスキーの自動車ルノーでのレニングラードへの旅」写真集より。

 ファッションという意味では、若いころのマヤコフスキーは贅沢で、未来派に名を連ねてからは、舞台では自作の黄色いシャツを着たものだった。そして、新作の詩を読みながら聴衆を嘲笑した。ブルジョワたちはこの詩人が自分らをあざけるのに頭にきて、舞台から引きずり下ろしたこともあった。今では、大したことはないかもしれないが、1910年代においては大事件であった。

 「彼は愛さずにはいられない人だった」。友人の詩人ワシリー・カミンスキーは回顧する。「舞台の上では、いつも彼は冗談混じりに、綱渡り師の真似をして、シルクハットの上に瓶を置いていた」。

 年とともに贅沢な服装はスーツに変わった。それから労働服になった。しかし、おしゃれは変わらず、浪費家であることは変わらなかった。1928年に、フランスを旅行した時に、永年の女神であるリーリャ・ブリークのためにルノーを一台持ち帰った。これにはかなりのお金がかかったが、彼女を、モスクワで自分のクルマを持っている唯一の女性にしたいと思うくらい彼女のことを想っていたのだった。

4.いつも何かに憤慨し、仲間をディスっていた

 マヤコフスキーの初期の作品「あなた」(1915)は彼が嫌悪していた裕福で無価値な知識人たちを題材にした作品で、その内容はエミネムの最新アルバムと見紛うほどである。

わたしの人生を

女と食事を愛するお前の言いなりにするくらいなら

モスクワのバーで

売春婦たちにパイナップルジュースを注ぐだろう

 1917年の十月革命後、ボリシェヴィキを支持していたマヤコフスキーは少しホッとしたようではあったが、しかしまだ怒りは残っており、その矛先は世界の資本主義に向かっていた。マヤコフスキーは「低級」とされていた詩人の作品をディスり続けた。1920年代のもう一人の有名な詩人、田舎っぽさが抜けない愛国主義的なセルゲイ・エセーニンもターゲットとなった。マヤコフスキーはその詩人を「バラライカ奏者」と呼び、彼の作品を嘲笑した。

5.劇的な最期

 2パックやノトーリアスB.I.G.といったアメリカのヒップホップアイドルたちは、ヒップホップ抗争で射殺されている。マヤコフスキーは1930年、自己との長い闘いの末にピストル自殺した。革命や社会主義未来の理想と、官僚主義的で抑圧的になっていったソ連の現実が合致しないことに何年もの間苦しんだ。マヤコフスキーは新たなスターリン体制社会に馴染もうとしたが、うまくはいかなかった。

 女流詩人のマリーナ・ツヴェターエワは回想録の中で、「マヤコフスキーという人間は革命後の12年間、自身の中にいるマヤコフスキーという詩人を殺そうとした。そして最後の年に、詩人が立ち上がり、マヤコフスキーという人間を殺してしまった」と綴っている

 悲劇はヒップホップ、ロックなどといったジャンルのクリエイティヴな天才を死に追いやったのである。

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