帝政ロシア時代の最も裕福な人々

モスクワのサヴァ・モロゾフ屋敷=

モスクワのサヴァ・モロゾフ屋敷=

Lori / Legion-Media
 1917年のロシア革命以前のロシアで最もリッチだったのは誰か?皇族、大貴族がリストの上位を占めるのは当然だが、なかには解放された農奴で、努力と才能で這い上がった人も。誰がいかにして大金持ちになり得たか、帝政時代の超リッチ列伝をお届けする。

 12世紀から15世紀にかけて、商工業によって繁栄したノヴゴロド共和国においてはすでに商人たちが重要な役割を担っていた。イワン・グローズヌィ(雷帝)の統治時代(16世紀)に最も裕福だったのは、国家権力と緊密な関係を持っていた実業家アニカ・ストロガノフであった。ストロガノフは皇帝から数百万ヘクタールの土地を受け取り、そこに自らの企業をいくつも作り、それによって得たお金を使って、偵察員や開拓員をウラルに派遣していた。

 増大する資金と権力はエカテリーナ2世の治世時代にピークを迎えた。エカテリーナ2世の寵児たちは女帝から贈られた数百万のお金できらびやかに着飾り、それほど幸運に恵まれなかった廷臣たちは女帝に好かれようと壮絶な争いを繰り広げた。当時の裕福な人々は数千人の農奴と莫大な土地を有していた。

 19世紀ごろになると封建制度は崩壊し、ロシアには「古典的な」資本家、産業家という階級が現れるようになった。中には、1914年までにその裕福さで、多くのかつてからの貴族を追い抜く者もいた。

 

19世紀

サムイル・ポリャコフ(1837−1888)

 セルゲイ・ヴィッテ大蔵大臣は実業家のポリャコフを「最も有名な鉄道の大立者」と呼んだ。ポリャコフの成功の鍵となったのは建設事業への近代的かつ迅速なマネージメントの導入であった。ポリャコフは新たな鉄道の建設で利権を得て、商業銀行を設立した。しかし当時の人々の証言によれば、ポリャコフは国家の資金を横領することも忌み嫌っていなかったという。

 エコノミストのスカルコフスキー(ちなみにこちらも賄賂を強要することで有名)は「彼はアゾフ鉄道の利権を得たいがために、地方自治体に30万ルーブル与えること、またレール工場を建設することを約束したが、結局、工場を建設することはなく、自治体にお金も渡すこともなかった」と憤慨する。ポリャコフは3100万ルーブルを残して亡くなった。

 

ピョートル・スミルノフ(1831−1898)

 ロシアでもっとも一般的な苗字を持つスミルノフは農奴から全ロシアの「ウォトカ王」への道を歩んだ人物である。解放されて自由の身となったスミルノフはアルコール店を開業し、3年後には小さな工場を設立。良い品質の商品を作ることを重視したが、それは誤りではなかった。スミルノフのリキュール、ウォトカ、ワインは数々の国際的な見本市で賞を取り、売上げを急速に伸ばした。スミルノフはウォトカ帝国を拡大し、死後870万ルーブルもの財産を残した。その20年後、彼の息子であるウラジーミル・スミルノフが亡命先で、現在スミノフ(Smirnoff)ブランドで知られるウォトカの製造を開始した。

 

パヴェル・トレチャコフ(1832−1898)

 ときにロシアのメディチと呼ばれる。家業を継いだ実業家のトレチャコフは紡績工場を設立し、リネン、綿、ウールなどの販売を行ったが、商業銀行の共同設立者のひとりでもあった。1898年時のトレチャコフの財産は3800万ルーブルと評価されているが、トレチャコフは何より金を惜しまぬ芸術のパトロンとして知られており、およそ40年間にわたり絵画を蒐集し、国立の美術館を設立した。トレチャコフは遺言に「心から熱く絵画を愛するわたしにとって、公共の芸術保管庫の礎を築くことに優る願いはない」と綴った。現在モスクワのトレチャコフ美術館には18万点の芸術品が収蔵されている。これはロシア芸術を集めた美術館としては世界最大級のもののひとつとなっている。

 

20世紀(1917年以前)

フェリクス・ユスポフ(1887−1967)

 裕福な貴族としてだけでなく、ラスプーチンを殺害した人物として知られる。ユスポフ家は多くの住宅、鉱山、23の領地、株などを所有していたが、両性愛者でプレイボーイだったフェリクスはその2100万ルーブルもの資産を一人で相続した。しかしユスポフ家は持っているお金を使い果たすような生活を送っていた。収入の半分以上は個人的な消費に充てられた。しかし気違いじみたところのあった貴族のフェリクスは何か大きな偉業を成し遂げることを夢想し、その結果、殺人に駆り立てられることとなった。回想録の中でフェリクスは「ラスプーチンと会った後、すべての悪とロシアの不幸の大きな原因が彼の中に隠されていると確信した」と記している。

 皮肉にも、革命後のロシアから逃亡したフェリクスの財政状況を安定させるのを助けたのは他でもないラスプーチンだった。映画「ラスプーチンと女帝」の中で、フェリクス夫人が暴漢ラスプーチンの犠牲となったというエピソードが挿入され、ユスポフは1933年にアメリカの映画会社メトロ・ゴールドウィン・メイヤー社を相手に裁判を起こし、25万ドルの賠償金を得た。ちなみにこの事件を受けて、「すべての登場人物はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません」という注意書きがハリウッドで出されるようになった。

 

ニコライ・フトロフ(1866−1918)

 フォーブス誌が後に行った試算によれば、フトロフは1914年時点でのもっとも裕福な企業家とされる。19世紀の多くの資産家と異なり、フトロフはゼロからスタートしたわけではなく、商人だった父親から800万ルーブルを相続した。モスクワに5階建てのショッピングセンターを作り、工場に融資を行い、茶の商売をし、金を採掘、綿を収穫した。第一次世界大戦時にフトロフはロシアで第一号となる化学染料の工場および初の電気冶金企業を設立した。1914年時にフトロフの資産は6000万ルーブルを超えていた。

 

数字で見る1913年当時の給与水準

 統計局のデータによれば、1913年当時、ギムナジウムの教師の給料は85ルーブル、掃除夫の賃金は18ルーブル、また平均的な家庭の食費は20−25ルーブルだった。 1913年の対ドルルーブルのレートが残っている。1898年から1913年にかけて、ルーブルの価値はそれほど大きく変動しなかったため(レートは金の価値を基準としていた)、換算には1913年のレートが用いられている。そのレートで計算すると、今ならトレチャコフは5200万ドル相当(2016年の価値に変換した場合)、スミルノフは1億1900万ドル相当をそれぞれ有していることになる。ポリャコフは金本位制の導入以前に亡くなったため、彼の資産は5億8300万ドルに近かったと見積もられる。またユスポフ家は2億5000万ドル、フトロフは7億1600万ドルと計算される。

 

ロマノフ家

 ロマノフ家は数世紀にわたってロシアでもっとも裕福な一家であり、必ずしも賢明にお金を使っていたわけではなかった。エカテリーナ2世はあるだけの金を使って生活を送り、寵児たちに数千ルーブルもの贈り物をした。しかし一方でエカテリーナは5番目の孫娘にオリガという名をつけている。誕生日と名の日(守護聖者の記念日)が一致するようにしたわけだが、つまりエカテリーナ2世は祝いの日の出費を抑えようとしたのである。

 その後、ロマノフ家は財産を貯えに貯えた。ニコライ2世の従兄弟の叔父は当時を回想し、「一家の遊休資本(宝石類)は合計1億6000万ルーブルと評価されていた」と記している。歴史家のイーゴリ・ジミン氏の統計によれば、1917年にニコライ2世の妻が有していたダイアモンドの数は600−700個に上ったという。また皇帝は貴族銀行と鉄道の株式、数百万株を保有していた。1905年の第一次革命勃発の際、ニコライ2世はリスクを回避するため、数百万という個人貯蓄をドイツの銀行に移送した。さまざまな試算によれば、1917年の時点で200万から1500万ルーブルがドイツの銀行に貯蓄されていたと見られる。

 皇帝一家はフランスに別荘、デンマークに宮殿を持っていた。またロシアではブドウ畑、屋敷、豪華な領地、宮殿、鉱山、ダーチャ(夏の別荘)を有しており、その価値は1億ルーブルに上った。ニコライ2世の収入は最大で年間2千万ルーブルだったという。しかしニコライ2世にはこの金額にも満足せず、国庫を使い込むこともあったという。ロシア帝国のヴィッテ大蔵大臣は「ニコライはある日、身内の1人に国立銀行の負担で、200万ルーブルを貸し付けたことがあった」と回想している。

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