ピョートル1世の時代にバラライカを演奏している人
Yuri Kashtanovルーシにおいて、いつバラライカが誕生したのかについては、歴史研究家の間でも意見が分かれる。バラライカについて最初の記述が現れるのは1688年から1700年にかけてで、ピョートル1世の治世であった。回想録作家のヤコブ・フォン・シテリンは、自身の著書「ピョートル大帝の生活に見る真のアネクドート(小噺)」の中で、ピョートルは太鼓や木の笛、バラライカ、角笛、ウクライナのバンドゥーラの素朴な音以外聴いたことがなかった」と書いている。
ピョートルは、ヨーロッパ旅行をしたときに、その民族音楽が好きになった。大帝はちょっとしたお楽しみや気晴らしをするのが好きだったので、バラライカやその他の民族楽器の演奏者を招いて、楽しいコンサートやパーティを開いた。
しかしながら、バラライカが作られた時期については、別の説もある。アレクセイ・ミヘリソン編纂の辞書「ロシア語で使われるようになった外国語25,000語とその語源」には、バラライカはタタール語であると記され、「ギターの形をした3弦の楽器で、指で弦を弾いて演奏する」と説明されている。楽器はタタールの軛(13~15世紀)の時代にもたらされたと推測される。
ワシーリー・アンドレーエフ
Public domainピョートルの時代、バラライカは農民やスコモローフと呼ばれる旅芸人たちによって演奏された。そしてバラライカ演奏はお祝いの際に楽しまれるものとされていた。「バラライカ」という名前は、「おしゃべりする」という単語から来たと考えられ、楽器がちょっとしたお話をするという意味を持つとされる。
ピョートルの時代の後も、バラライカは農民が演奏する楽器であり続けたが、楽器は貴族の間ではすっかり忘れさられてしまう。再び、バラライカが必要とされるようになったのは19世紀末。ロシア的なものがふたたび流行するようになり、建物や教会も擬似ロシア様式で建てられるようになり、洋服も民族衣装をヒントにしたものなどが作られるようになった。その頃、サンクトペテルブルクで、演奏家のワシーリー・アンドレーエフが「バラライカ演奏同好会」を結成し、その会には次第にドムラ、吹奏楽器(スヴィレリ、ロシキなど)や打楽器なども加わるようになった。アンドレーエフの開くコンサートは大成功を収め、ロシアの貴族たちも民族音楽に熱中するようになった。
ワシーリー・アンドレーエフを描くカリカチュア。「ストレコザ(トンボ)」雑誌、1903年
Public domainしかも、当時バラライカは世界的な名声を白するようになった。アンドレーエフの同好会は、1889年にパリで開かれた万国博覧会のロシア館でもコンサートを開き、大喝采を浴びた。
アンドレーエフとバラライカ愛好家らは古い楽器の改良にも取り組んだ。現在の形のバラライカは、ほかでもないアンドレーエフの努力によって出来上がったものである。アンドレーエフの元にいた職人たちは、プリマ、アルト、ピッコロ、バス、コントラバスなど、各音域のバラライカを製作した。
農民、1907〜1915年
Sergey Prokudin-Gorsky今、バラライカは、バレエやアヴァンギャルド芸術と並んで、世界に紹介される人気のロシア文化の一つである。
西側でのバラライカの普及に貢献したのはイギリス人のビブス・エッケル。彼は高い技術を持つ演奏家の一人であるだけでなく、外国の大学でロシアの民族音楽を教えたり、イギリスBBCラジオのためにバラライカのコンサートシリーズを録音したりした。
もう一人の名演奏家、アレクセイ・アルヒポフスキーはバラライカのパガニーニとの異名を持つ。民族楽器オーケストラで長年にわたって演奏した後、ソロ演奏家としての活動を開始し、バラライカのために書かれた音楽を演奏することで、バラライカの楽器としてのありとあらゆる可能性を開いた。
バラライカのコンサートは全世界で開かれている。多くの演奏家はもはやロシアの農民のような姿ではなく、タキシードを着てステージに立ち、シンプルな楽器でありながらもバラライカがオーケストラの楽器になんら劣らないことを証明している。
現在、もっとも有名なロシアのバラライカバンドの一つである「トリオ・バラライカ」は、このバラライカを流行の楽器の一つにした。「トリオ・バラライカ」はオーケストラと共にクラシック音楽も演奏し、外国のヒット曲をカバーしたりしている。
バラライカによるカバー曲は非常に人気がある。インターネットに公開された動画には信じられないほどの再生回数が記録されている。たとえば、世界的なヒット曲「Despacito」が、コントラバスバラライカ、ドムラ、アコーディオンを使ってロシア民謡風にアレンジされるとこんな感じになる。
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