本書は、ロシア文学研究を代表する中堅、若手による共同研究の成果をまとめた論文集である。「自叙」、つまり自伝、回想録、抒情詩などにおける自らを語る営為が共通テーマだ。
「文は人なり」という言葉がある。およそ真摯な自己表現にはすべて、かけがえのない個性が現れるはずだ。と同時に、「汝自身を知る」ことは誠に困難であり、ゆえに、真に個性的な作品は稀有だと我々は知っている。空しく「自叙」を重ねた結果、かえって自己から遠ざかりかねない。本書が『自叙の迷宮』と題されたゆえんだろう。
批評の難しさという根本的な問題を提起していたのが、奈倉有里だ。「銀の時代」の大詩人アレクサンドル・ブロークに関する批評を、詩人の生前から現代まで、奈倉は丹念に追っている。
ブロークによれば、批評とは、自分の間尺に合わせて詩を「切り刻み」、さまざまな潮流や手法のレッテルを貼ることである。その結果、生きた芸術が、生きた「私」が、出来合いの概念の論理的関係に帰してしまう。批評など「考えすぎのおじさんのおもちゃ」にすぎないと、この詩人は軽蔑していた。
では、真に自叙たりうる創造的批評はそもそも可能なのか?
その疑問を解くカギは、三浦清美と武田昭文の論考にある。
三浦の「宗教説話に滲出する自叙――ポリカルプと逸脱の精神――」は、13世紀初めのモンゴル侵攻前夜に書かれた『キエフ洞窟修道院聖者列伝』についてのものである。列伝の著者は、ウラジーミル主教シモンとその弟子ポリカルプで、キエフ洞窟修道院の修道士たちを描いている。
ポリカルプは貧家の出だが、持ち前の才能と野心で目覚ましい出世を遂げ、ついには主教位をねらって画策し始めるも、師シモンから、修道士の本分にもどるよう叱責され、聖者列伝を書く課題を与えられる。列伝執筆を通じてポリカルプは、文才を爆発的に開花させ、人間的に成長していく。
三浦は、「物語にじっと耳を澄ます」ことに徹し続けてきたようだ。その結果浮かび上がってきたのは、紙背に隠れていた、シモンとポリカルプの魂ののっぴきならぬ交流のドラマと、その歴史的背景となる、モンゴル侵略前夜の荒廃した世相だ。
文章に「耳を澄まし」、「人」が見えるまで待つ、見えたら、見えたままを書く。三浦の批評の根幹はそれに尽きる。これが批評の全体性、全身性である。この読みにたどり着くには、資料の熟読玩味と時が必要だったのだろう。
武田の論文は、「ヴァシーリー・トラヴニコフとは誰か?――ホダセーヴィチにおける自叙と文学史の交点――」。ヴァレリー・ホダセーヴィチは、ロシア革命後に亡命した詩人・批評家である。彼は1936年にパリで、それまで無名だった詩人ヴァシーリー・トラヴニコフの作品を発見し、伝記を書いたという触れ込みで、その伝記を朗読し、聴衆を感動させる。
ところが、これが真っ赤なウソであった。トラヴニコフなる人物は、自分が考え出した架空の人物だったと、朗読した当の本人が後で種明かしをしたのである。聴衆は、プロの文学者も含めて見事に一杯食わされた。亡命ロシア文学史上名高い逸話であるが、そこに武田は、疑問を投げかける。「それは本当にただのいたずらだったのか」。「嘘から出た真」だったのではないかと。
問いを確かめるために武田がとった方法は、ホダセーヴィチ自身をはじめ、さまざまな詩人・作家の伝記的事実、文学作品、その手法、スタイル等と、この偽伝記とを徹底的に照らし合わせることだった。武田の方法は、要するに、レミニッセンスの観点から、この偽伝記を見直すことだ。
偽伝記に隠れていた引用、仄めかし、メッセージ、創作と人生における根本的動機を的確無比に掘り出した結果、ホダセーヴィチ自身も必ずしも意識していなかったであろう、彼の「人」が浮き彫りになる。
武田は、ホダセーヴィチの一種怪物的な人間を直観的にがっちり掴んだうえで、膨大な関連資料を渉猟しているが、そこに評者は、武田自身の端倪すべからざる怪物性(失礼!)が詩人と触発し合っているのを感じる。
生きた全体像を掴み切ることがすべてだ。それがあらゆる批評の出発点であり、そのうえで論理的な方法が有効になる。
その生きた全体という「私」と、歴史、伝統とは、言うに言われぬ関係で交わる。
ソ連の詩人オリガ・ベルゴーリツは、独ソ戦におけるレニングラード包囲戦で、自作の詩をラジオで放送し続け、市民を鼓舞した。「バリケードの聖母」と呼ばれた彼女は自伝『昼の星』を残している。「昼の星」とは何か?中村唯史は、論文「自叙は過去を回復するか――オリガ・ベルゴーリツ『昼の星』考――」で、この題名をはじめ、自伝が秘める彼女の世界観、憧憬を、シンボルの分析を通じて明らかにする。分析は見事だ。
そこから見えてくるのは、共産主義と中世ロシアの伝説、さらには『ヨハネ黙示録』さえ一体となったビジョンである。中村は、人類史を貫いて生きる人間精神の――すなわち「私」の――広大さ、伝統の深さに目を向けさせた。
「私」は全人類史を背負っている。しかし、いかに背負うか決めるのは「私」である。自叙とは、「私」と歴史の相互浸透を見極め、決断することである。
(佐藤雄亮・モスクワ大学講師)
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