ニコライ・グミリョフ=
Karl Bullaグミリョフはロマンチックな詩人、ロシア詩の「銀の時代」(1920年代)の「ルィツァリ(騎士)」、将校、ストイックな旅行者。人生の道のりには、エキゾチックな旅、有名な女性との恋愛、戦争への参加、創作全盛期でのソ連政府による処刑があった。
1914年、グミリョフの探検隊は、芸術作品、写真、地元の部族の日常品、豊富な民族学的資料の大きなコレクションを、アカデミーに運んできた。アフリカはグミリョフの詩および歌の創作に多大なインスピレーションを与えた。中には「ガラ」や「サハラ」がある。
1912年、グミリョフは新たな芸術運動、アクメイズム派の出現を発表した。アクメイズムは象徴主義の極端さと抽象への反応であった。アクメイズムが宣言したのは、物質性、イメージの具象性、言葉の正確さ。
「銀の時代」の主要な詩人のアンナ・アフマートヴァ、オシップ・マンデリシュターム、セルゲイ・ゴロデツキーなどが、この運動に加わった。アクメイズムはその後、文学だけでなく、絵画(コンスタンチン・コロービン、ボリス・クストディエフ)、音楽(アナトリー・リャドフ、イーゴリ・ストラヴィンスキー)にも波及した。
最初の妻は有名な詩人アンナ・アフマートヴァ。まだグミリョフが若い頃に知り合った。2人で熱心な文学生活を送り、互いにささげた叙情的な作品を多数執筆した。2人の息子のレフ・グミリョフは後に、民族誌学者、歴史家、作家、そして父と同様、情熱的な旅行家になった。結婚生活は結局うまくいかず、8年後に離婚した。
スターリンの恐怖政治の時代、グミリョフは民衆の敵とされたが、アフマートヴァは元夫を見捨てることなく、その詩の遺産の保護に協力した。
グミリョフはヨーロッパの詩人(シェイクスピア、ボードレール、ブラウニング)以外にも、ロシアでは珍しい中国の詩や、中近東の叙事詩(「ギルガメシュ叙事詩」)、さらにアフリカ旅行の際に通訳を通じて記録したアビシニアの民謡までも翻訳していた。
大胆不敵な性格と功績を残したいという強い欲求から、第一次世界大戦の開戦後まもなく、前線に出ることを志願した。ヨーロッパ全土で争いに加わったことから、その勇気をたたえられ、聖ゲオルギーの十字架を受章し、将校という称号を得た。
当時の多くの著名な詩人は愛国的な詩や軍事的な詩を書いていたものの、参戦したのがグミリョフとベネディクト・リフシツの2人だけというのは興味深い。
グミリョフはボリシェヴィキによる1917年のロシア革命を支持していなかったが、亡命も拒否した。自分の姿勢を隠すことなく、大っぴらに教会に向って十字を切り、君主主義的な見解を発表した。同時に、文学界でも影響力のある人物となり続けた。
逮捕の正式な理由も処罰も謎のまま。本当に反ソ連の陰謀に加わっていたのか、それとも完全なでっちあげだったのかについて、研究者の意見はわかれている。
グミリョフの名は、死後60年以上にわたり、公式に厳しく禁止されていた。ソ連の最初で最後の大統領であるミハイル・ゴルバチョフがペレストロイカを始めたことから、「グミリョフの件」の見直しが行われ、反革命の陰謀の容疑は外され、詩は再び正式なロシア文学へと戻された。これはマリーナ・ツヴェターエワやマンデリシュタームよりもずっと遅れての「復活」である。
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