ニコライ・グミリョーフ、レフ、アンナ。
『レクイエム』、『ヒーローのない叙事詩』など、20世紀屈指の傑作で知られるアフマートヴァは、オデッサの海軍技師の家庭に生まれた。
翌1890年、家族は、サンクトペテルブルク近郊の、離宮エカテリーナ宮殿のあるツァールスコエ・セローに移る。
5歳のときに、兄と姉のフランス語の授業を聞いているうちに、ひとりでにフランス語を話し始めたというから、子供のころから並外れた音感の持ち主であったようだ。
詩を書く“野蛮な女の子”
少女時代は、彼女の回想によると「野蛮な女の子」で、無帽で裸足で歩き回り、時化の海にボートからいきなり飛び込んで泳いだりしたという。
彼女はやがてツァールスコエ・セローのギムナジウムで教育を受ける。
11歳のころから詩を書き始めるが、謹厳な父は、娘の「デカダン風の」詩を嫌っていた。
1903年にツァールスコエ・セローで、3歳年上のニコライ・グミリョフと知り合う。熱烈な求婚を断り続けた彼女がついに結婚を承知したのは1909年のことだ。
翌1910年の結婚式には、双方の親類縁者は出席しなかった――2人の結婚にみんな反対だったので。
新婚旅行先のパリで画家モディリアニと知り合い、16枚のデッサンのモデルとなる(現存するのは2枚のみ)。
一番幸福だったころ
夫婦ともいわゆる家庭的なタイプでは全然なかった。グミリョフは、新婚旅行から戻るとすぐに妻を置いて、アフリカへ旅行へ出かけてしまう。
妻は、愛する人を失う悲しみを詩に表し、翌1912年に、第一詩集『夕べ』を刊行して、たちまち若き芸術家たちのアイドル的存在となる。
刊行直後には、息子レフ・グミリョフ(のちにユーラシア主義の歴史家となる)が生まれている。
アフマートヴァは、言語に絶する苦しみをなめるスターリン時代に、このころを最も幸福な時期として思い出すことになろう。
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