20世紀初め、ロシアの化学者で写真家のセルゲイ・プロクディン=ゴルスキーは、カラー写真を撮る複雑な技術を開発した。彼は、ロシア帝国の多様性を記録するために、この新しい方法を使おうと思い立ち、1903年から1916年にかけて全国各地に数多くの旅をした。
プロクディン=ゴルスキーは、写真について、教育と啓蒙の一形態という考えをもっており、それは、中世建築の写真でとくにはっきりと示された。とくにモスクワ近郊の古都群「黄金の環」において。
モスクワ北東140㎞のところにあるペレスラヴリ・ザレスキー(現在の人口は約4万人)は、なかでも特筆すべき街で、プロクディン=ゴルスキーは、この古都を1911年に訪れている。筆者のここでの写真は、1980年から2012年にかけて撮影されている。
正史によれば、この街は、ユーリー・ドルゴルーキー公によって、1152年に築かれた。彼は、モスクワの創設者でもある(1147年)。12世紀に入る頃になると、現代ロシアの源流をなす中世国家「キエフ・ルーシ」の首都キエフから、この地域に移住する人々が出てきた。ペレスラヴリ・ザレスキーの名は、キエフ近くのペレヤスラヴリに由来すると考えられている。なお、ザレスキーは「森の向こう」という意味で、新集落が中央ロシアの平原と森林の肥沃な地域にあることを示している。
特筆すべき歴史
この中世都市にはいくつかの修道院が残っているが、なかでも美しいのは、プレシチェーヴォ湖を見下ろす丘にあるゴリツキー生神女就寝修道院だ(「ゴリツキー」は小さな丘を意味する)。この湖は比較的小さいが、ロシア史において、若きピョートル大帝が船の帆走の演習に使い、それがロシア海軍の原点になるなど、大きな役割を果たした。
修道院の起源についてはほとんど知られていないが、14世紀半ばにはすでに活動していた。ロシアで最も崇敬されている修道士の一人、聖ドミトリー・プリルツキーは、この修道院で剃髪し、速やかに高位にのぼっていった。1354年に、モスクワ大公国の修道院運動の象徴とも言うべきラドネジの聖セルギイが、ゴリツキー修道院を訪れた際に、聖ドミトリーは彼の知遇を得ている。
聖セルギイは、モスクワ大公ドミトリー・ドンスコイの精神的指導者として大きな影響力をもっており、大公は1380年に、クリコヴォの戦いで初めてタタールの大軍に大勝している。
聖ドミトリー・プリルツキーは、ドミトリー・ドンスコイの子供たちに対し、同様の役割を担った。聖セルギイの勧めで彼は、ペレスラヴリ・ザレスキーを去り、ヴォログダに赴く。そこで1371年に、救世主修道院を創建する。これは後に、プリルツキーを記念して、救世主プリルキ修道院と呼ばれるようになる。
ゴリツキー修道院の史上最も劇的な瞬間は、1382年、ジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)を再統一したトクタミシュ・ハンがモスクワを猛攻撃、占領した際に、この街もハンにより略奪に遭ったとき。その際にドミトリー・ドンスコイの息子の一人が人質にされたにもかかわらず、妻エヴドキア(1353~1407)は巡礼の途上にあったので、ゴリツキー修道院へ逃れることができた。
当時、ゴリツキー修道院は丸太で造られていたから、敵に頑強に抵抗するのはむりだった。しかし幸いにして、エヴドキア妃はいく人かの従者とともに湖岸に降りることができた。彼女らが筏に乗って、湖の中央に向かって漕ぎ出すと、濃霧が立ち込め、タタール勢が修道院を破壊して去るまで、彼らの姿を隠してくれた。
エヴドキアは、奇跡的に救われたことを記念して、1392年頃の修道院再建に支援を行った。これに先立ち、1389年に38歳で夫ドミトリー・ドンスコイが亡くなると、彼女はモスクワ大公国の事実上の支配者となる。その叡智と息子ワシーリー1世(1371~1425)の治世初期における堅実な指導により、尊敬を集めた。
15世紀には、ゴリツキー修道院は、重要な宗教的拠点となった。15世紀後半から末にかけて最も有名な修道院長はダニイルで、彼は貧者と放浪無宿への慈悲、慈善で知られた。16世紀初めにダニイルは、近くに聖三位一体修道院を創建。ワシリー3世とイワン雷帝(4世)らによって庇護された。
17世紀初めには、ツァーリの跡目争い、内訌、外国軍の干渉による「大動乱」が起き、ゴリツキー修道院はじめ、各地の修道院は広範な破壊に遭うが、やがて修復される。今のゴリツキー修道院の建物は、全聖人教会とともに、現存するレンガ造りの建物としては最も古いものに属するが、17世紀後半に、これより小規模な16世紀の教会がある場所に再建された。その景観は、プロクディン=ゴルスキーが撮影した中央の建築群の左側に捉えられている。
ゴリツキー修道院の目立った特徴は、17世紀後半に要塞を模して造られた壁だ。壁の南東の角の近くには、2つの門があり、レンガで独特の形と模様を作り出している。正門(南)は、小さな聖ニコライ教会を支える形になっている。この教会は17世紀末に完成。
東門には、この修道院の名にある、生神女就寝(すなわち聖母マリアの永眠)の絵が掲げられている。プロクディン=ゴルスキーの写真に見られる、この絵は、ソ連時代に消されたが、筆者の2012年の写真が示すように、再度描かれている。
格上げと拡大
時代は下って1744年。女帝エリザヴェータ・ペトローヴナ時代の正教会の組織改革により、富裕なペレスラヴリ教区が創設された。ゴリツキー修道院は、1722年に火災で深刻な被害を受けていたが、大主教の公邸に改築された。この「格上げ」が、教会再建の資金をもたらした。
1753年~1761年に大主教を務めたアンブローシー(ゼルティス=カメンスキー)が、再建事業を指導した。教養豊かな大主教は、ゴリツキー修道院を壮大なバロック様式で拡大しようと企図した。その最も印象的な成果は、1750年代初めに着工し1761年に完成した生神女就寝大聖堂だ。これは、1520年代に建てられた教会に取って代わるものだった。その外観は、バロックと新古典主義の単純な混合に見える。
ところがこの大聖堂の内装には、後期バロック様式の装飾が施されている。壮麗なイコノスタス(聖障)はまさに特筆すべきだが、プロクディン=ゴルスキーは、主要なイコノスタスの一部の細部だけを撮影している。
それというのも、彼が開発したカラー写真を撮る技術は、ガラス板に3回露光させるプロセスを含むので、大型のカメラは水平面に固定せざるを得ず、聖堂の内装の上部を捉えるために傾けることができなかった。にもかかわらず彼は、南の礼拝堂のイコノスタスの絶妙な写真をものにしている。
女帝エカテリーナ2世の治世になると、また運命の気まぐれで、ゴリツキー修道院の拡張計画は頓挫してしまった。1788年に、ペレスラヴリ教区は、新たな教会組織改革によってその地位を失ったからだ。そして、バロック様式のアンサンブルは、19世紀を通じて徐々に損なわれていった。
逆説的だが、ソビエト政権の教会弾圧により、ゴリツキー修道院の衰微に歯止めがかかった。他の修道院のほとんどが荒らされていたというのに。
というのは、1919年に、この場所が地元の歴史博物館として利用されるようになり、博物館がここを維持したからだ。
1960年代には、文化遺産の保存を目指すイワン・プリシチェフは、手段が限られたなかで、保存・復元運動を展開し始め、それによりここの建築群の多くを復元するのに成功した。こうした果敢な努力のおかげで、ゴリツキー修道院は、この地域で最高に魅力的な建築のランドマークの一つとして生き残ってきた。
プロクディン=ゴルスキーによる帝政時代のカラー写真
20世紀初め、ロシアの写真家のセルゲイ・プロクディン=ゴルスキーは、カラー写真を撮る複雑な技術を開発した。彼は、1903年から1916年にかけてロシア帝国を旅し、この技術を使って、2千枚以上の写真を撮った。その技術は、ガラス板に3回露光させるプロセスを含む。
プロクディン=ゴルスキーが1944年にパリで死去すると、彼の相続人は、コレクションをアメリカ議会図書館に売却した。21世紀初めに、同図書館はコレクションを電子化し、世界の人々が自由に利用できるようにした。
1986年、建築史家で写真家のウィリアム・ブルムフィールドは、米議会図書館で初めてプロクディン=ゴルスキーの写真の展示会を行った。