ロストフのクレムリンの大鐘楼:いかにロシアの象徴となったか

 モスクワ近郊の古都群「黄金の環」に含まれるロストフ・ヴェリーキー。そのクレムリンと鐘楼、そしてその響きは、ロシアのひとつの象徴とされている。

ロストフのクレムリン、西の城壁。左側より、ウスペンスキー聖堂、鐘楼、北側の城壁と塔および復活教会(北門の上方)。以上は西側の景観。1995年6月28日。

 20世紀初め、ロシアの化学者で写真家のセルゲイ・プロクディン=ゴルスキーは、カラー写真を撮る複雑な技術を開発した。彼は、ロシア帝国の多様性を記録するために、この新しい方法を使おうと思い立ち、1903年から1916年にかけて全国各地に数多くの旅をした。

 プロクディン=ゴルスキーは、写真について、教育と啓蒙の一形態という考えをもっており、それは、中世建築の写真でとくにはっきりと示された。例えば、彼が1911年に訪ねたロストフ・ヴェリーキーのような街で。なお、筆者(ウィリアム・ブルームフィールド)が撮ったロストフの写真は1987年から2012年にかけてのものである。

ロストフのクレムリン。全聖者教会(破壊され現存せず)の鐘楼から北西方向を望む。左から、ウスペンスキー聖堂、復活教会(北門の上方)、聖使徒福音者神学者イオアン(ヨハネ)教会(西門上方)。1911年夏。

 ロストフ・ヴェリーキーは、モスクワ北東約220㎞のところに位置する。年代記で最初に言及されるのは862年。この年はまた、ロシアの源流となった中世国家「ルーシ」が生まれた年ともされている。

 ロストフ・ヴェリーキーの建築がその栄光の頂点に達するのは、17世紀。アレクセイ・ミハイロヴィチ帝(1629~1676)の30年間の治世だ。彼はピョートル大帝の父である。


府主教のビジョン

ウスペンスキー聖堂と鐘楼。西側の景観。1995年6月28日。

 ロストフの主なランドマークはクレムリンである。これは、ロストフ府主教の公邸と定められており、そのように機能している。ロシア正教の重要な拠点である。1670年代と1680年代に、強力な権能をもった府主教イオナ・シソエヴィチ(1607年頃~1690年)によって主に建設された。この建築群は、この時代の画期的な建築作品の1つと考えられている。

ウスペンスキー聖堂(南のファサード)と鐘楼。西側の景観。1988年8月21日。

 17世紀の後半には、閉ざされた空間における建築群により、精神的な領域の壮大さを物質的に表現するという考えが、正教会の人々の想像力をとらえた。この聖なる領域に関するコンセプトは、来るべき神の国、丘の上の輝く街、救世主の首都を象徴するものと見なすことができる。それはさらに、「ホルトゥス・コンクルスス(鎖されし園)」の理念と関係しているかもしれない。これは、楽園に座すマリアを描いた中世宗教画などに見られ、聖母マリアの中世の象徴の一つ。1670年代のロシアで、「ヴェルトグラード」のイコンの形で現れた。

ウスペンスキー聖堂の鐘楼、上階。北の景観。1911年夏。

 府主教イオナは、その繁栄した教区の最高の職人たちのほか、1万6千人の農奴を指揮していた。彼の石工たちは、1670年から1690年までの20年間で、府主教の公邸、住まいのために、いくつかの大きな教会や建物を建てただけでなく、ネロ湖の北岸に、塔や門を兼ねた教会を持つ壮大な城壁も築いた。

 隣接する16世紀のウスペンスキー聖堂(生神女就寝聖堂)は、モスクワのそれを模したレンガ造りの建物で、府主教の公邸をなす複合施設に調和している。17世紀後半には、低い半球状のドームが華麗ないわゆる「ネギ坊主」に替えられた。

ウスペンスキー聖堂の鐘楼、上階、鐘が鳴っている。1988年8月21日。


「白鳥」の家

 巨大な鐘楼は、1682年~1689年に、2つの段階の建築を経ている。それは、ぜんぶで13の鐘を支えている(19世紀末に2つの小さな鐘が追加された)。

 2つの最大の鐘のうちの1つは、モスクワの職人フィリップ・アンドレーエフとその息子ガブリエルにより1682年に鋳造され、「白鳥」と命名された(そのメロディアスなトランペットを思わせる輝かしい響きのために)。もう1つは「ポリエレオス Polyeleos」(ギリシャ語の「最も慈悲深い」という意味の語からとられ、正教の祈祷文に出てくる)。 ポリエレオスは約18トンの重さで、E音(ミ)に調整され、「白鳥」は9トンでG音(ソ)である。

ウスペンスキー聖堂の鐘楼、上階。鐘の「白鳥」と「ポリエレオス」と「シソイ」。1995年6月28日。

 しかし、これらの鐘は、小さい鐘といっしょに鳴ると、短調を奏でた。これは、府主教イオナには不満だった。そこで彼は、モスクワの大砲鋳造所の別の職人、フロール・テレンチェフに、長調を響かせるように鐘を改造する仕事を託した。

 テレンチェフは、1688年にこの難問を解決した。彼は、さらに巨大な鐘をもう一つ鋳造したのである。これは、府主教イオナ・シソエヴィチにちなんで「シソイ」と名付けられた。重さは実に約36トンあり、C音(ド)に調整された。鐘の舌は、100プード(1638キロ)あり、1.4秒で鐘を打つ。こうして3つの大きな鐘は、ハ長調の和音(ドミソ)を形成したのである。

 

鐘の破却の危機

 18世紀になると、ロシアを欧州列強に押し上げようとする若きツァーリ、ピョートル大帝(1世)は、修道院の財産を大量に接収し、鐘を溶かして、とくに武器用の金属材料にさせた。

 しかし幸運なことに、この大鐘楼の鐘は救われ、19世紀後半には地元商人の尽力だけでなく、さらにその後のニコライ2世の後援によって、ロストフのクレムリンは荒廃せずに済んだ。

 だが、1917年の社会主義革命後、内戦の絶望的な時期には、鐘がまた脅威にさらされることになる。工業上の必要のために鐘を溶かそうという呼びかけは、献身的な博物館長の迅速な訴えによって阻止された。1919年の夏、影響力のあるソ連初代教育人民委員(教育大臣)アナトリー・ルナチャルスキー率いる代表団がこの地を訪れ、鐘楼を保護することに決めた。だが、鐘はまだ危険にさらされていた。

ウスペンスキー聖堂。鐘楼から南東を望む。1995年6月28日。

 スターリンが実権を握る1928年までには、クレムリンの敷地内で鐘を鳴らすことは禁止され、1930年には大聖堂が閉鎖される。スターリンが死去した年、すなわち1953年8月には、激しい暴風が襲って、クレムリンの建築群のドームと屋根の大部分が破壊された。再び専門家が集まり、クレムリンは修復される。

復活教会(北門の上方)。北の景観。右側はウスペンスキー聖堂の後陣。1911年夏。

 ロストフのクレムリンと記念碑的な鐘楼の救済は、何十年にもわたってそこで数々の映画を撮影したソ連映画産業の関心事でもあった。その映画のなかには、サイエンスフィクションの人気コメディ「イワン・ワシーリエヴィチ 職業を変える」(1973)が含まれている(この映画は、イワン雷帝がタイムマシーンで現代のモスクワに現れるという奇想天外な設定だ)。また、1960年代から、ソ連のレコード・レーベル「メロディア」がロストフの鐘の録音を開始した。

 1991年、ロストフのウスペンスキー聖堂は正教会に返還され、内装を復元する困難な作業が始まった。

 2013年に、ロストフのクレムリンは、全ロシア国営テレビ・ラジオ放送会社(テレビ局、ロシア1、ロシア24などを運営)が主催する公開投票により、「ロシアの10の視覚的シンボル」の1つに選ばれた。鐘楼を破壊し得た各時代の「乱気流」にもかかわらず、鐘は今でも定期的に鳴り響いており、実際、ロシアの「響きの象徴」の1つとみなせる。

復活教会(北門の上方)。北の景観。1987年8月7日。

 20世紀初め、ロシアの写真家のセルゲイ・プロクディン=ゴルスキーは、カラー写真を撮る複雑な技術を開発した。彼は、1903年から1916年にかけてロシア帝国を旅し、この技術を使って、2千枚以上の写真を撮った。その技術は、ガラス板に3回露光させるプロセスを含む。

 プロクディン=ゴルスキーが1944年にパリで死去すると、彼の相続人は、コレクションをアメリカ議会図書館に売却した。21世紀初めに、同図書館はコレクションを電子化し、世界の人々が自由に利用できるようにした。

 1986年、建築史家で写真家のウィリアム・ブルムフィールドは、米議会図書館で初めてプロクディン=ゴルスキーの写真の展示会を行った。

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