ソ連軍が行った最も大規模かつ重要な軍事演習

セミョン・マイステルマン/TASS
 世界最大最強の軍隊の一つであったソ連軍は、その能力をしばしば誇示することをためらわなかった。その軍事演習のいくつかは、規模と物量で内外を驚かせた。

1. キエフ大演習(1935)

 「キエフ軍管区演習」(またはキエフ大演習)は、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国の中央部で、1935年9月12~17日に行われた。これは、1941年に始まった大祖国戦争(独ソ戦)の以前では、赤軍の最大の演習であった(1946年までソビエト連邦軍は赤軍と呼ばれた)。6万人以上の将兵、1040両の戦車と装甲車、470機の軍用機が参加した。

 演習の主な目的は、赤軍の航空機、戦車、騎兵、歩兵からなる複合軍を使って、1回の大攻勢で敵を倒せるか否か、その能力をテストすることだった。つまり、速やかに敵の前線を壊滅させ、後方に達することで、赤軍は、第一次世界大戦のような果てしなき塹壕戦で疲弊する事態を避けようとしたわけだ。

 さらに、ソ連初の大人数でのパラシュート降下も、この演習中に実施された。1188人の兵士が航空機から降下し、空港を占拠する任務を遂行した。

2. トーツキエ演習(1954

 トーツキエ演習(コードネームは「雪つぶて作戦」)は、1954年9月14日に行われた。これは、軍隊が参加した演習で核兵器を使った初のケースであり、ロシア南部のトーツキー演習場で実施。敵にまず核攻撃を加えた後で、さらにどのようにその敵を攻撃できるか?これをテストするのが演習の趣旨だった。

 核爆弾「RDS-2」の炸裂に続いて、大規模な砲撃や航空機による攻撃が続いた。その後、部隊は砲撃した区域を通って前進した。演習には4万5千人以上の将兵、600両の戦車と自走砲、600両の装甲車、320機の軍用機が加わった。

 爆心地からわずか600メートルのところを、いくつかの部隊が攻撃区域を越えて進み、航空機はキノコ雲を突き抜けて飛んだ。

 ソ連崩壊後、演習の参加者と地元住民にとってこの演習が極めて有害であったことが知られるようになった。演習後、地元住民のがん発生率が著しく増している。

 ソ連はこの演習の後も、カザフスタンで1956年に、軍隊の参加のもとでの核実験を繰り返したが、この種の演習はこれが最後となった。ちなみに米国は「砂漠の岩作戦」と呼ばれる同様の演習を8回も行っている。

3.「オケアン70Ocean-70)」または「オケアン100

 ソ連史上最大級の海軍演習「オケアン70Ocean-70)」は、ソ連の建国者、ウラジーミル・レーニン生誕100年を記念して行われた。バルト、太平洋、黒海、北洋の4つのソビエト艦隊すべてが、この1970年4月14日〜5月5日の演習に参加した。

 80隻の潜水艦(15隻の原潜を含む)、84隻の水上艦と45隻の補助船が大西洋と太平洋で演習した。さらに、2つの海軍歩兵連隊(諸外国の海兵隊・陸戦隊に相当)、20の海軍航空連隊、8つの遠距離航空連隊と高射部隊も参加。

 この演習は、ソ連海軍の力をNATO(北大西洋条約機構)に誇示するのが目的で、それは達成された。それまでアメリカ海軍は、ソ連海軍が自分たちには及ばないと確信していたので、若いソ連艦隊(すべての船舶は建造後20年以下)が効果的に連絡、連携して行動できることに衝撃を受けた。とりわけ印象的だったのは、大西洋で4月23~25日に激しい時化のなかで空母機動部隊が行った攻撃だった。

 軍事専門家George W. Baerは、著書『海軍100年史:1890~1990年のアメリカ海軍』のなかで、「オケアン70」は米海軍の目を開かせるできごとだったと書いた。 

 残念ながら、演習は悲劇をともなった。4月12日に、大西洋の演習実施地点に向かう途中、原子力潜水艦「K-8」一隻が火災により沈没。52人の水兵が死亡し、52人が救助された。

4. ザーパド81West-81

 世界史上最も大規模かつ印象的な演習の1つである「ザーパド81(West-81)には、10万人以上の将兵が参加した。1981年9月4日~12日に行われ、ソ連だけでなく、ワルシャワ条約機構同盟国もいくつか加わった。

 演習は核兵器を動員せずに行われた。そのかわりに、ソ連軍は、空軍の援護と、空挺部隊の敵後方への大量降下により、通常兵器による一回の強力な攻勢で敵を破るという想定だった。戦争開始の3~4日後には、敵の反撃はほぼ完全に断たれているはずであった。

 この演習では、ソ連軍が核兵器を使わなくてもどんな敵でも倒せることを、NATOに実証してみせることをもくろんでいた。また、近代的な軍の管制システムと最新の精密誘導兵器が演習でテストされた。
 演習のいくつかの要素は、今日でも極秘扱いだ。

5. シールド82

 核兵器の使用を想定していなかったザーパド81とは異なり、シールド82は模擬核戦争の条件で行われた。

 この演習の最初の段階は、ソ連軍による先制核攻撃を模したものだった。1982年6月18日、戦略ロケット軍は、潜水艦、ミサイル発射施設、軍用機、軍艦、戦略爆撃機から弾道ミサイルと巡航ミサイルを発射する訓練を開始。発射はすべてわずか7時間で行われたので、西側メディアでは「7時間の核戦争」という名前が付けられた。

 模擬核攻撃の後、ソ連とワルシャワ条約機構同盟国による陸上での演習が、ブルガリアで行われ、1982年9月30日に終了した。 

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