イワン雷帝の悪名高き親衛隊員:オプリーチニキはなぜ修道士風の生活をしていたか?

歴史
ゲオルギー・マナエフ
 イワン雷帝の親衛隊員「オプリーチニキ」はいかに生まれ、どんな活動をして、そしてなぜ廃止されたのか?

 16世紀モスクワの大貴族たちは、金色、鮮紅色、橙色などが目立つ色鮮やかな装いをしていた。だから、それを背景に、黒衣をまとったオプリーチニキ(イワン雷帝の親衛隊員)は、まるで修道士のように見えた。しかし、大貴族、士族出身の1千人の戦士たちにこういう装いをするように命じたのは、イワン雷帝(4世)その人だった。 

 時とともに、オプリーチニキの数は約6千人にまで増えた。まるで連ドラやファンタジーにあるように、彼らは、修道院風の服従で統合されていた。ツァーリの要塞化された大邸宅で、外界から閉ざされた聖堂でともに祈禱し儀式を行っていた。この「修道院」に入るに際して、彼らの多くは家族を捨てた。

オプリーチニキの語源「オプリーチニナ」とは何か

 「オプリーチ」«опричь» とは「~の外の」「~を除いた」という意味で、「オプリーチニナ」は元々、公の未亡人に割り当てられた所領のことだった。

 公の所領、財産はすべて息子たちに相続されたのだが、「オプリーチ」は、公の未亡人へ割り当てられた所領で、それが「オプリーチニナ」と呼ばれた。

 その「オプリーチニナ」が、イワン雷帝が親衛隊により没収した土地、すなわち雷帝の直轄領を意味し、さらには、彼の中央集権確立のための親衛隊員による弾圧政策も指すようになっていく。

 アンドレイ・クルプスキーは、イワン雷帝の親友で同志だったが、雷帝の改革に反対して亡命し敵対者となった。その彼は、オプリーチニキを「クロメシニキ」 «кромешники» と呼んだ。つまり、「アード・クロメシヌイ」 «ад кромешный» を仄めかしたわけだ。彼らが現出した「特別な地獄 → 悲惨極まる状況」の意味である。

 「よく知られていることだが、ロシアの民衆の方言では、『クロメシニキ』という言葉は、あらゆる邪霊、魑魅魍魎の類と、あの世に棲みつく存在を指して用いられる」

 歴史家のイーゴリ・クルキンとアンドレイ・ブルイチェフは、オプリーチニキの日常生活を研究しており、こう述べる。

 だから、オプリーチニキとそのイメージを創り出したイワン雷帝の考えでは、オプリーチニキは、復讐とか因果応報とかに関係していたはずだ。

なぜイワン雷帝はオプリーチニキを導入したのか

 オプリーチニナ体制により、イワン雷帝は、当時の「オリガルヒ」(財閥)と戦ったと言えよう。当時の大地主たちは主に、リューリク王朝の公たち(リューリクの末裔)であり、広大な領域の収入と住民を支配していた。彼らは、ツァーリによる税金の導入、中央からの役人の派遣に抵抗し、文字通り自分たちの権力で物事を管理したいと考えていた――公たちが各地に割拠していた時代と同様に。

 エリートたちとの 15 年以上にわたる闘争の後、雷帝は、極めて厳しい決断を下した。ロシア・ツァーリ国の領土を2つの不均等な部分、つまりオプリーチニナ «опричнина» とゼームシチナ «земщина» に分割することだ。オプリーチニナには、雷帝は、彼に忠誠を誓った貴族、士族と土地のみを含めた。それ以外はすべてゼームシチナとした。

オプリーチニナはいかに機能したか

 ツァーリにとっての問題の一つは、軍事遠征における公や大貴族の振る舞いだった。当時、ロシアの軍隊を構成していたのは、まさに公や大貴族など領地所有者が提供する「領地軍」だった。

 この欠点は、カザン・ハン国への遠征において非常に顕著だった。ソ連時代の歴史家で、大貴族に関する最大の専門家だったアレクサンドル・ジミンは次のように述べている。

 大貴族の軍司令官たちは、誰が偉く、誰が誰に従うべきか常に口論していた。肝心の、カザンをどう占領するかはそっちのけで言い争っていた!これらの「場所論争」を――彼らの占めるべき場所、席次、門閥に関する議論だったのでこう呼ばれた――、ツァーリはやっとのことで収めることができた。だが、雷帝は彼らにうんざりした。こんな軍隊をまともに指揮することは不可能である!

 雷帝は、オプリーチニキ軍を創設した。その際に、貴顕、つまり公、貴族、そして「大貴族の子」(小貴族)も集めた。しかし、モスクワからではなく、スーズダリ、ヴャージマ、モジャイスクなどの古都からだ。イワンは戦士たちを引見し、彼らの親類関係、勤務、縁故などについて自ら問い質した。

 さらに、「反対尋問」もなされた。同じ地域の他人が最初の証言を裏付けなければならなかった。食糧倉庫の管理者、パン屋、肉屋、馬丁、さらに「オプリーチニナ」の住居、要塞、都市で働く使用人まですべて「尋問」された。ゼームシチナからは誰も来てはならなかった。

 その結果、オプリーチニキ軍は常に「所領を持たず」、ツァーリ個人にのみ服従した。ヴォエヴォーダたち(地方長官)も公たちも、この軍隊に命令することはできなかった。

 オプリーチニキ軍は、何によって賄われていたのか?雷帝は、公と大貴族から最高の土地を奪い、家族ごとそこから追い出して、代わりに国の他の地域に土地を与えた。ただし、大がかりな旅支度は禁じられ、着の身着のままで追放された。これが、モスクワのエリート層を根絶するオプリーチニナのテロルだった。

 オプリーチニナに採用された者たちは、忠誠を誓った。「私は、ゼームシチナの者どもと共に飲食しないことを誓います。彼らとはいかなる関係もありません」。モスクワで勤務したリヴォニア(*現在のラトビア東北部からエストニア南部にかけての地域)出身のイオガン・タウベとエレルト・クルーゼはこう証言する。

 また、オプリーチニキのゲンリフ・シタデンは次のように語っている。「宣誓によれば、オプリーチニキは、ゼームシチナの者たちと話したり、いわんや結婚したりすることなどあってはならない。オプリーチニキの父母がゼームシチナにいた場合、決して訪れることはできなかった」

 オプリーチニキ自身が、これらの禁止事項の遵守状況を厳重に監視していた。シタデンの記述によると、あるオプリーチニキがゼームシチナの者と話しているところを見つかり、他のオプリーチニキたちにより、両名ともその場で殺されたという。

 タウベとクルーゼは次のように書いている。

 「オプリーチニク(オプリーチニキの単数形)とゼームシチナの人間が…遭遇せざるを得なかったとき、オプリーチニクは彼の首根っ子をつかみ、法廷に連れてゆく。オプリーチニクは、それまで彼を見たことも話したこともないのに、彼が自分とオプリーチニキすべてを侮辱したと訴える。すると、大公(雷帝)はそれが事実無根であることを承知しているにもかかわらず、原告は忠実な男であると宣言され、被告の全財産を受け取る。さらに被告は殴打され、街中で晒し者になり、斬首されるか、終身刑となる」

オプリーチニキはどんな外見をしてどこで暮らしていたか

 「オプリーチニキ(選ばれし者たち)は、馬上にあるときは、周知の次のような目立つ格好をしている。すなわち、馬首に犬の頭をぶら下げ、鞭の柄には箒を結わえている。これは、彼らがまずは犬のように噛みつき、次に国からすべてを一掃することを意味する。歩兵は皆、羊の毛皮を裏地にした粗末な衣または修道服を着て歩かなければならないが、その下には、クロテンまたはテンの毛皮の裏地に金の刺繍を施した羅紗の服を着用しなければならない」。タウベとクルーゼはこう書いている。

 オプリーチニキの馬は気が荒かったことに注意してほしい。すべての馬が、切断された犬の頭を首にぶら下げられて平然としていられるわけではない。

 「すべての兄弟(*つまりオプリーチニキ)は、…先の尖った、長くて黒い修道士の杖を携えなければならない。これは、農民を打ち倒せるほど強力なものである。また、上着の下には、肘の長さ、あるいはそれ以上の長さのナイフを忍ばせる。これにより、誰かを殺すと決めたときに、刑吏を呼び出したり、剣を取りに行ったりする必要はなくなる。拷問や処刑の準備をすべて予め整えておけるわけだ」。こうタウベとクルーゼは語る。

 オプリーチニキは、モスクワその他の大都市の通りを 10~20 人の中隊でパトロールした。

 「それぞれの中隊は、大貴族、政治家、公、大商人に狙いをつけていた。彼らの誰も、自分の罪を知らなかったし、ましてや自分の死期も知らなかった。事実上死刑を宣告されていることなど想像の外だった。誰もが何も知らずに、法廷や役所の勤務先に向かっていた」。タウベとクルーゼは、オプリーチニキによるテロルについてこう説明している。

 もちろん、1千人――後には6千人にまで膨れ上がった――のオプリーチニキのすべてが「修道院」に属していたわけではない。「修道院」は、オプリーチニナの最高のエリート、つまり100~300人のみで構成されていた。彼らは、アレクサンドロフ村でイワン雷帝ととも、実際に修道士風に暮らしていた。そして、イワン雷帝その人が、彼らの「修道院長」の役割を演じた。

 毎朝4時にイワン雷帝は、「堂務者」(その役は、オプリーチニキの隊長マリュータ・スクラートフが果たした)と一緒に鐘を鳴らした。直ちに、「オプリーチニキの最高幹部」全体が教会に集まった。出てこなかった者は罰せられた――その身分にかかわりなく、8日間にわたり、破戒者に対する懲罰が科せられた。4時から7時まで、ツァーリと「兄弟たち」は教会で聖歌を歌い、その後1時間の休憩を挟んで、さらに8時から10時まで歌い続けた。その後で食事になった。

 その様子についてタウベとクルーゼが書いている。

 「ツァーリは、修道院長さながらに、兄弟たちが食事をしている間は立ったままだ。それぞれの兄弟は、杯、器、皿を食卓に持ってこなければならない。各人に、ワインと「蜜酒」からなる極めて高価な食べ物と飲み物が出される。食べ残しと飲み残しは、器や皿に入れて持ち帰って、貧者に分け与えなければならない。しかし、大抵の場合は、家に持ち帰っていた。食事が終わると、修道院長自らが食卓につく。食後に彼が拷問部屋に出向かない日は稀だった。そこには常に何百人もの人々がいた」

 昼間の仕事の後――それはしばしば、拷問をともなう尋問と調査からなっていた――、ツァーリは夕食の席に向かった。夕食は祈祷と組み合わされて、9時まで続いた。「その後、ツァーリは、寝室に寝にゆく。そこには、彼のお付きの、3 人の盲目の老人がいた」。タウベとクルーゼはこう記している。かくしてオプリーチニクの牙城でのツァーリの一日が終わる。

オプリーチニナ体制はなぜ終わったか

 オプリーチニナ体制は、その目的を達することはできなかった。雷帝は、モスクワの大貴族らエリートと大地主(世襲領地所有者)の権力を弱めることはできなかった。雷帝は単に「クロメシニク」(オプリーチニキ)を増やしたにすぎない。そして、その彼らは、まず何よりも一般庶民を収奪する結果となった。

 歴史家ステパン・ヴェセロフスキーの試算によれば、人口比は、1人の大貴族または廷臣に対して並の地主が3~4人、1人の軍人に対し10人の庶民。

 1571年、クリミアのハン、デヴレト1世ギレイがモスクワに襲来した。オプリーチニキ軍はこの時点で既に完全に崩壊しており、ただ怯えるだけで、やって来て街を守ろうとしなかった。オプリーチニキは 1 個連隊しか集まらなかったが、ゼームシチナは5 個連隊を出した。モスクワは焼き払われた。

 その後、イワン雷帝は、オプリーチニナの廃止を決定した。既に深刻な問題が山積しており、そのなかにはオプリーチニナによって引き起こされたものもあった。

 当時、リヴォニア戦争が戦われていた(ロシアと、ポーランド・リトアニア、さらにスウェーデンなどとが、現在のエストニアとラトビアの領域をめぐり争った)。結局、ポーランド・リトアニアがリヴォニア戦争に勝利し、スウェーデンもいくつかの要塞を奪い、返還を拒否した。真の「特別な地獄」に向かって雷帝の国は滑り落ちつつあった。

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