初めてツァーリとして戴冠したイワン雷帝がなぜ「4世」なのか?

Russia Beyond (Photo:Tretyakov Gallery; freepik.com)
 イワン雷帝(1530~1584年)は、ロシアのツァーリとして戴冠した最初の人物だが、イワン4世(イワン・ワシーリエヴィチ)として知られている。ロシアの歴代のツァーリと皇帝がどのように「数えられたか」をご説明しよう。

 「番号が振られた」最初のロシア皇帝は、ピョートル大帝(1世)だ。1721年10月22日、ロシア帝国の創設が宣言された。この日、ロシアの元老院とシノド(聖務会院)は、ピョートルに「祖国の父、全ロシアの皇帝、ピョートル大帝」の称号を正式に与えた。しかし、これに関する法令の名称は、「…ピョートル 1 世に皇帝の称号を贈る法令…」だった。

 ピョートルには、ローマ風に「I」がその称号に付された。彼自身、その称号が同時代の皇帝と同様の意義を有することを望んでいたからだ。ピョートルが念頭に置いていたのは、まず第一に、1711年から神聖ローマ皇帝であるカール6世(1685~1740)だ。実際、ピョートルは、彼の縁戚であることを誇りに思っていた。

 ピョートルの長男アレクセイの妻は、カール6世の皇后、エリーザベト・クリスティーネ・フォン・ブランシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテルの妹だ。

 こうした経緯から、1725年1月28日にピョートルが亡くなると、法令により、彼はピョートル1 世、その妻はエカチェリーナ1世(夫の死後に即位)と呼ばれることになった。

 18世紀以前はというと、ロシアのツァーリ、それ以前のモスクワ大公たちは、名と父称で呼ばれていた。たとえば、ピョートルの父は、アレクセイ・ミハイロヴィチ(1629~1676)、雷帝の父はモスクワ大公ワシリー・イワノヴィチ(1479~1533)と呼ばれた。

誰がイワン雷帝を「4世」とする慣わしをつくったか?

ニコライ・カラムジンの肖像、ワシリー・トロピーニン作、1818年

 「ナンバリング」は続いていき、1740年には、ロシアの不運な帝位継承者、イワン・アントーノヴィチが元老院によってイワン3世と宣言された。

 元老院の論理では、イワン雷帝(イワン・ワシーリエヴィチ)が、ツァーリとして戴冠した最初のロシア君主であり「I」である。イワンの名をもつ2人目のツァーリは、ピョートルの異母兄イワン・アレクセーエヴィチ(1666~1696年)だから、イワン・アントーノヴィッチはイワン3世となるはずだった。

 イワン雷帝はリューリク朝であり、イワン・アレクセーエヴィチとイワン・アントーノヴィッチはロマノフ朝なのに、「ナンバリング」が連続している点に注意してほしい。数字を連続させることで、「お上」はロマノフ家がリューリク朝の血縁であることを強調したわけだ。

 「ナンバリング」の仕方が変わったのは19 世紀前半だ。1829年、作家・歴史家ニコライ・カラムジン(1766~1826)による大部の『ロシア国家史』が出版された。この大作は非常な影響力をもち、ほぼ1世紀にわたってロシア史の主要な著作となったが、彼はその中で、モスクワ大公イワン・ダニーロヴィチ(イワン・カリターとして知られる)から、ロシアの君主を数えている。

 なぜか? イワン・カリターは、ロシア人から税を集めてモンゴル・タタールに渡す、徴税の請負の権利を得て、モスクワ大公国を富強にした。彼は、それによりある程度の独立を勝ち得た最初のモスクワ大公だったからだ。

 イワン・カリターはまた、ドミトリー・ドンスコイの祖父でもある。ドミトリー・ドンスコイは、1380年に「クリコヴォの戦い」でジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)の大軍を打ち破った。

 『ロシア国史』の著者ニコライ・カラムジンは、イワン雷帝の政治を是認せず、ロシアの君主を雷帝から数えたくなかった。もっとも、イワン雷帝が最初にツァーリとして戴冠しているので、彼を1世とするのは論理的ではあっただろう。だが、カラムジンの『ロシア国史』が出た後、それによって、現在の数え方の伝統が確立された。

 このカラムジン方式によると、イワン雷帝は、歴代のモスクワ大公のなかで4人目のイワンだった。イワン・カリター(1284~1340)が最初(1世)で、その息子のイワン・イワーノヴィチ(1326~1359)が2世、ロシア統一をほぼ実現したイワン・ワシーリエヴィチ(大帝)が3世だ。 

 したがって、イワン雷帝はイワン4世になり、ピョートルの異母兄であるイワン・アレクセーエヴィチはイワン5 世で、イワン・アントーノヴィチはイワン6世になる。

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