「…かくも重大な問題の仲立ちとなるべき者は誰もいなかった。ゆえに我らは、この大いなる意義を有する極秘の事柄を口頭にて伝えた――貴女との友愛を願いつつ…。すなわち、我らはアントン(英大使アンソニー・ジェンキンス)をこちらへ派遣するよう求めた。なぜなら、アントンに次の点を質したかったからである。我らが彼に述べた言葉を彼が貴女に伝えたかどうか、貴女が我らの提案に同意されるか否か、そして貴女のお気持ちはどうであるかを」。1570 年 10 月 24 日、イワン雷帝は英国女王エリザベス 1 世にこのような手紙を書いた。
この手紙、そして同時代の人々の証言は、2つの王朝の統合の失敗の始まりを画している。彼らが述べていた「大いなる意義を有する極秘の事柄」と何か?
エリザベス 1 世(左)とイワン雷帝(右)
Nicholas Hilliard/Walker Art Gallery, Hans Weigel der Ältereよくあることだが、貿易問題が発端だ。1551 年、英国の有名な占星術師・数学者ジョン・ディーの主導で、同国に「土地、国、島、未知の場所を発見する商人・旅行者の商社」が設立された。同社の目標は、中国へのいわゆる北東航路を見つけることだった。
しかし、その代わりに英国商人は、モスクワ大公国との恒常的な交易を確立した。英国人は「モスクワ会社」(ロシア会社)をつくり、ブリキ、布、武器を持ち込み始めた。これに対して英国人は、麻、木材、脂身、タールを得る。イワン雷帝は、この会社にロシアで免税取引を行う権利を与えた。
英露間の貿易が盛んになるにつれ、雷帝とエリザベス 1 世の間で活発な商談も始まる。雷帝が書簡を送った女性は後にも先にもこのイングランド女王だけだ。しかし、すべての事柄を手紙に書くわけにはいかなかったので、重大情報は、代理人である英国大使アンソニー・ジェンキンスを通じて伝えられた。そして雷帝は、話題を商談から求婚へ移していった。
「イングランド大使ホーセイを宝物部屋に招くイヴァン4世」
Alexander Litovchenko1570 年のこの時点で、40 歳のイワン雷帝は 2 度男やもめになり、どちらの場合も、妻が毒殺されたという噂が根強く残っていた。一方、37 歳のエリザベス 1 世は、すでに12 年間イングランドを治めていた。そして、配偶者を選んで王位継承者を確保してほしいという議会の求めをうまくかわしていた。
英国の外交官ジェローム・ホーセイは、モスクワ会社の代表となり、モスクワ大公国についての詳しい記録を残しているが、こう書いている。すなわち、イワン雷帝は、占星術師・宮廷医エリセウス・ボメリウスに向かって、エリザベス女王の年齢と、彼女との婚姻の可能性はどの程度あるか尋ねた、と。
「もっとも、彼(雷帝)には、自分の成功を危ぶむ理由はあった。女王が、多くの国王や大公の求婚を拒んできたからだ。しかし、彼は個人的な資質、知恵、富、偉大さにおいて他の主権者よりも優れていると考えて、希望を失わなかった。彼は挑戦しようと決心した」
ホーセイはまた、イワン雷帝がモスクワ大公国から遠く離れたところに花嫁を探すようになった理由を指摘している。そうした結婚によって、万一、リヴォニア戦争または国内の陰謀で致命的な状況に陥ったときに、雷帝は英国に避難先を求めることができる。こういう事態を彼は、生涯恐れていた、と。
ホーセイのこうした情報は、プスコフ年代記の1570 年の項目で裏付けられており、英国に逃亡してそこで結婚するツァーリの意図を示している。
さて、1570 年10月にエリザベスに宛てた手紙の中で、雷帝は、通常の通商問題のほかに、「大いなる意義を有する極秘の事柄非常に重要な秘密事項」について繰り返し触れている。これはまさに英国大使アンソニー・ジェンキンスを通じて女王に伝えたもので、歴史家たちは、これは求婚の意思のことだと考えている。だが、求婚は断られてしまった。
拒絶に対して雷帝は、例のごとく激しく反応した。返書の最後で、彼はエリザベスを「月並みな女」と吐き捨てただけでなく、貴女は自国の支配者たる能力がない、国家にとって有益な決断をすることができぬ、とあけすけに指摘した。こうして、12年の長きにわたり文通が途絶えた。
しかし、この求婚が失敗しても、イワン雷帝は英国王室と姻戚になる考えを捨てなかった。1582 年、彼は大使フョードル・ピーセムスキーをエリザベスのもとに派遣した。第一に、英国との同盟条約の条件について交渉し、第二に、ツァーリとエリザベス 1 世の親戚との結婚の可能性とその条件について話し合うためだ。相手は、メアリー・ヘイスティングス。モスクワ大公国では、ハンチンスカヤ公女と呼ばれた。一部の歴史家の考えでは、この結婚問題は、同盟条約締結問題と密接に関連しており、事実上不可分だった。
ピーセムスキーは、雷帝の提案についてエリザベト 1 世から聞かれる可能性のあるデリケートな質問に関し、雷帝自身から詳細な指示を受けていた。主な質問は、求婚の時点でイワン雷帝はすでに 6 番目の(7番目という説もある)妻マリアと結婚しており、子供が生まれかねないということだった。
ところが、花婿候補は、こうした事実にまったく当惑しておらず、ピーセムスキーは、英国側に次のように約束するよう雷帝から命じられた。つまり、ツァーリは離婚する。新たな結婚から生まれる子供たちは、ロシアの帝位を継ぐことはないが、莫大な財産を与えられる。
しかし、ロンドンでペストが蔓延したこともあり、英国側は明らかに結婚に二の足を踏んでいた。そのため、婚姻の交渉は長引いた。そして、ピーセムスキーとともにモスクワにやって来た英国大使は、同盟の条件について話し合う代わりに、あの手この手でツァーリがメアリー・ヘイスティングスと結婚するのを思いとどまらせようとした。ところが、最終決定がなされる前の1584 年にイワン雷帝は亡くなってしまった。
イワン雷帝の時代、イギリスの大使と商人が住んでいた「古いイギリス庭」
A. Savin英国との婚姻の試みが 2 回失敗したことで、イワン雷帝暗殺説に火がついた。ヒ素や水銀による毒殺説を支持する幾人かの歴史家は、次のように考えている。
英国女性と結婚するイワンの意思が彼の死のきっかけであった。なぜなら、それは、ボリス・ゴドゥノフおよびその親族の野心に反するものだったから。というのは、雷帝と英国女王の近親者との結婚により、この結婚から生まれた子が帝位継承権を持つ可能性がある。ボリス・ゴドゥノフの妹イリーナは、雷帝の息子である(虚弱な)フョードルに嫁いでいたのに、帝位は彼をすり抜けかねない、というわけだ。
以上の状況から、イワン雷帝の死を「早めた」のはボリス一味だったという説がある次第だ。
英露両国は、ずっと後の19世紀になってようやく、王家の婚姻の機会を得た。当時、両国は、対立していたが、1874年にロシア皇帝アレクサンドル 2 世の娘マリアと、ヴィクトリア女王の次男であるエディンバラ公アルフレッドが結婚した。
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