ルーシの地を訪れたヴァリャーグたち。ヴィクトル・ヴァスネツォフ画
Getty Imagesその通り。それはおそらくヴァリャーグだった。もっとも、12世紀に書かれた最古のロシア年代記『過ぎし年月の物語(原初年代記)』では、彼らは「ルス」と呼ばれているが。
その年代記によると、リューリク(~879年に死去)は、ヴァリャーグの公であり、862年に、現在のロシア北西部のフィン人と東スラヴ人によって招聘された。というのは、彼らの間に不和が続き、互いに戦い始めたからだ。結局、疲弊した彼らはこう言い合った。
「我々を支配してくれる公を探して、法に従って我々を裁いてもらおう」
彼らはこの決定にしたがって海を越え、ヴァリャーグの「ルス」のもとへ赴いた。ヴァリャーグのこの部族は「ルス」として知られていたのである。他に、スヴェリ(スウェーデン人)、ノルマン、アングル、ゴートと呼ばれる部族がいた。
そして、スラヴ人、チュヂ族、クリヴィチ族は、「ルス」の人々にこう言った。
「我らの国は大きく豊かだが秩序がない。我らのところへ来て、支配してほしい」。12世紀に書かれた最古のロシア年代記『過ぎし年月の物語(原初年代記)』にはこう記されている。
リューリク (819 - 879)
Getty Imagesこうして、リューリクとともに、その同盟者がやって来た(年代記では彼らを「兄弟」と呼んでいるが)。すなわち、リューリクの弟とされる、シネウスとトルヴォルである。
「三兄弟」は、ラドガ湖畔とノヴゴロド(リューリク)、ベロオゼロ(シネウス)、そしてイズボルスク(トルヴォル)にそれぞれ支配を確立した。
「ヴァリャーグの招聘」とも呼ばれるこの画期的な出来事が、ロシア国家の出発点となった。
シネウスとトルヴォルは、自分の領土を築いた後、間もなく亡くなったので、リューリクは、彼らの土地も、自分の領土に統合した。
そして、リューリクの息子イーゴリ(878~945)を祖とする子孫たちは、リューリク王朝を継続していく。これはロシア語で「リューリコヴィチ(リューリクの子孫たち)」としても知られている。
大ノヴゴロド、ロシア建国一千年祭記念碑像の一部であるリューリクの像。
Dar Veter (CC BY-SA 3.0)数百人はいただろう。ただし、正確な数は、歴史的資料が不十分なので、推定できない。リューリク朝の最も網羅的な系図は、ここで見ることができる(リンクはロシア語)。
11世紀になると、王朝はさらに拡大し、いわば副王朝が形成されるに至る。多数の公たちがロシア中の何百もの町を治め、土地の封建的な断片化を引き起こした。当時、王朝には5つの主要な系統があった。
プスコフ州のイズボルスク要塞。ロシアの国家が始まった場所の一つ。
ウラジーミル・アスタプコヴィチ撮影/Sputnik748年間だ。すなわち、 リューリクとその兄弟が招聘された862年から、1610年まで。この年、リューリク男系子孫の最後のツァーリ、ワシリー4世(ワシリー・シュイスキー)が退位させられた。なお、リューリク朝は、1598年、フョードル1世の死により断絶していた。
アレクサンドル・ネフスキー。パーヴェル・コリン画
Global Look Pressイワン3世(大帝)。モスクワ大公。
Getty Imagesワシリー・シュイスキー
ウラジーミル・ボイコ撮影/Global Look Pressワシリー・シュイスキー(1552~1612)は、リューリク男系子孫の最後のツァーリだ。1606年に、ポーランドに支持された僭称者、偽ドミトリー1世が殺害された後に、即位した。
シュイスキーは、かつてスーズダリ、ニジニ・ノヴゴロドを治めていたリューリク傍流に属していた。彼の治世は4年間に過ぎず、広範な支持を得ることは決してなかった。モスクワにおいてさえ、その権威は無きに等しかった。
1610年、ポーランド軍がモスクワへと進軍するさなか、シュイスキーは、ヴォロティンスキー家、ムスチスラフスキー家などの親ポーランドの大貴族により退位させられ、修道士にされた。そして2年後、ポーランドで死去する。
ミハイル・フョードロヴィチ・ロマノフ (1596-1645)、ロマノフ家の最初のツァーリ。
Sputnikイワン雷帝の愛妻アナスタシア・ロマノヴナは、大貴族ザハーリン家(後のロマノフ家)の出であった。彼女の父、ロマン・ザハーリン=コーシキン(~1543年)は、フョードル・コーシカ(~1407年)の玄孫だ(コーシカは「猫」の意味)。このコーシカがリューリクの系譜に連なっているとされる。
もっと読む:ロマノフ朝とリューリク朝に血縁関係はあるのか?>>
リューリクの末裔は、帝位への権利を失った。ミハイル・ロマノフ(1596~1645)が、ロマノフ朝初代ツァーリとして、1613年に「全国会議」(ゼムスキー・ソボール)によって選出されたからだ(全国会議は、16~17世紀にロシアで、必要に応じて開かれていた身分制議会)。ロマノフは、国法により正式に即位したのである。
1613年2月20日。新しい王朝、ロマノフに関する 法令がモスクワのクレムリンで読まれる。17世紀のミニチュア。
共有にもかかわらず、リューリクの末裔は大いに尊敬されていた。彼らは、ピョートル大帝(1世)の大改革の時期にも、公の地位を保っていた。18世紀初めの時点で、ロシアにはぜんぶで47の公家があり、その大部分がリューリクの系譜だった。1880年代でも、そのうち36家が残っている。その生活ぶりはさまざまだったが、ほとんどが官僚あるいは軍人として勤務していた。
ニキータ・ロバノフ=ロストフスキー
エフゲニー・オジノコフ撮影/Sputnik現在でも、リューリクの子孫のDNAを持つ者は数千人いる。
ニキータ・ロバノフ=ロストフスキー(1935年1月6日~)は、系図学者およびコレクターで、最も有名なリューリクの末裔の一人だ。
アンドレイ・ガガーリン(1934~2011)
Janvhei (CC BY-SA 3.0)ロシアの物理学者、アンドレイ・ガガーリン(1934~2011)も、有名なリューリクの末裔だった。彼は3回結婚し、2人の娘と1人の息子を残している。
ドミトリー・シャホフスコイ公爵(1934~)も、リューリクの系譜に連なり、パリ在住の文学者である。
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