コサックはずっと誤解されてきた:本当はどんな人たちか?

歴史
ゲオルギー・マナエフ
 コサックは、特定の種族、民族、職業を意味しない。また、特定の場所を指すわけでもない。実は、いろんな民族、職業、場所がさまざまに組み合わさっている。では、コサックとはどんな人たちだったか、そして現在はどんな状態にあるのか。昔から今にいたるまで誤解されがちなコサック神話を検証してみよう。

 彼らは、ロシア南部の自由な土地で、独自の掟に従って生活していた。彼らは、ロシア帝国で最も頼りになる軍隊の 1 つだったが、それと同時に、彼らを治め支配したいと考えていたロシアのツァーリたちにとっては、常に頭痛の種だった。

 コサックの数、彼らに関する各種統計は、精密なものは存在し得ず、彼らの居住地もまた正確に定義できない。歴史的には、「コサック」という言葉は、ロシアの地における膨大な「自由の民」、古代からそこにいた人々を指していた。

コサックはいかに現れたか?

 コサック(казак)は、チュルク系の言葉で、自由人、放浪者、富を求める人などを意味する。明らかに、ロシアでは、主人や地主に縛られていない人を指すように思えた。

 最初のコサックは、14~15 世紀頃にかけて、ロシアの諸公国の外縁部――主にロシア南部――に住んでいた。彼らは、公国を遊牧民から守るために要塞化された集落で暮らしていた。遊牧民は、ウラジーミル・スーズダリ公国とカスピ海および黒海の間に広がる、いわゆる「野蛮地帯」を彷徨っていた。

 これらのコミュニティは、敢えて自由とリスクを選んだ人々で満ちていた。彼らは、中央ロシアでの比較的安全で他者に依存する生活を犠牲にした。農奴制、税金、中央集権がロシアに現れてくると、コサックの地は、逃亡した農奴、法律上に問題を抱えた者、そしてとにかくここに逃れることを選んだ者を受け入れ始める。

コサックはいつからロシア政府に仕えるようになったか?

 中央集権がモスクワ大公国に現れるとすぐに(15 世紀頃)、初期のモスクワ大公たちは、コサックを仕官させようとした。そして、コサック部隊は、タタールの遊牧民に対するモスクワ大公の戦いに参加する。

 16世紀のイワン雷帝(4世)の治下では、南方(ドン川、ドニエプル川沿岸など)に住むコサックは、プリカーズ(省に相当する国家機関)によって一定程度管理されていた。すなわち、コサックは、辺境の集落で、モスクワ大公国の敵に対して守りについていた。彼らは、ある程度モスクワの支援を受け、中央から派遣された、コサックでない正規の軍人によって指揮された。

 17 世紀には、コサックを管轄する個別のプリカーズが組織されたが、彼らは依然として自由な生活を送っており、ロシアの近隣諸国(とくにオスマン帝国)を攻撃したりした。中央政府がトルコとの和平を維持しようとしたときでさえ、襲撃して妨害することがあった。
 ロシア帝国のさまざまな地域に、20 を超えるコサック軍が散在した。そして、19 世紀末までは、比較的自由な地位を保っていた。ドン・コサック軍は(現在はウクライナ領であるドン川流域にあった)、最大かつ最古のものだった。

 彼らが正規の常備軍と異なっていたのは、平時にはコサック軍をあっさり解散したことだ。そして、個々人のコサックは、自由な生活に戻った。つまり、産物や商品を取引し、酒を飲み、宴会を開き、あるいは草原で勝手気ままな暮らしを送った。しかも、彼らは、資産、徴兵、その他に関連する税を免れていた。ただし、中央政府の招集があれば、直ちにこれに応じて武装して騎乗することを厳しく義務付けられていた。

コサックはいかに自治を奪われたか?

 17 世紀から 18 世紀にかけて、コサックが伝統的に住んでいた地域はロシアの一部に組み込まれるに至った。1667~1671 年に、ロシア・ツァーリ国のこうした政策により、ドン・コサックの大反乱――ステパン・ラージン農民戦争として知られる――が発生した。指導者ステパン・ラージンは、結局、仲間のコサックによってツァーリの役人に引き渡された。彼らは自分たちの自治を保ちたかったからだ。だが、18 世紀初頭、ドン・コサックはピョートル大帝(1世)に征服され、彼らの土地は帝国の一部となる。

 エカチェリーナ2世(大帝)の治世でも、ほぼ同じことが生じた。つまり、ロシア帝国がいわゆる「小ロシア」(現代のウクライナとベラルーシ)を征服し始めると、1773~1775 年にエメリヤン・プガチョフ率いる大反乱が起きた。やはりコサックのアタマンであるプガチョフは、部下と農民を率いて中央ロシアに向かったが、ロシア帝国軍に粉砕された。その後、ドン・コサックは国家勤務を固く義務付けらる。つまり、コサックは、一定の特権と責任を持つ、ロシアの一集団となったわけだ。

ザポロージエ(ザポリージャ)・コサックとは?

 17世紀半ば、別の主要なコサック軍、ザポロージエ(ザポリージャ)・コサックが、ロシアに加わった。彼らは、ウクライナ中部のドニエプル川流域に定住し、ポーランド・リトアニア共和国に政治的に依存していた。そして、南と東の国境をクリミア・タタール、オスマン帝国、さらにはロシアのツァーリから守っていた。

 しかし、彼らとポーランドとの関係には、問題が少なからずあったため、蜂起と解放戦争がしばしば起きていた。ボグダン(ボフダン)・フメリニツキー率いる反乱もその1つだ。このとき、ザポロージエ・コサックは、ロシアに助けを求め、その保護と支配のもとに移った。これは、ロシアとソ連では、「ウクライナとロシアの再統一」とされる出来事だ。

 だが、ロシアにおけるザポロージエ・コサック軍は、わずか 1 世紀ちょっとしか続かなかった。(露土戦争により)ロシア帝国の国境が南方に広がったため、ザポロージエ・コサックの領分は、ロシアの後方はるかとなり、事実上、国境の守り手としてのこのコサックの主な役割はなくなったからだ。

 1775 年、ロシアの女帝エカチェリーナ 2 世(大帝)がザポロージエ・コサック軍を解散すると、一部のコサックは、オスマン帝国のスルタンに仕えることを選び、他の者は、現在のロシアのクバーニ地方に居を定めた。彼らは、今日我々がクバーニ・コサックとして知る人々の祖となった。

なぜロシアの探検家はコサックと呼ばれたか?

 シベリアのシビル・ハン国を征服したイェルマーク、ベーリング海峡を発見した(つまり、アジアとアラスカが陸続きでないことを発見した)セミョーン・デジニョフ、および17~18世紀のロシアの多くの探検家も、コサックと呼ばれた。なぜなら、彼らはロシアの辺境で仕え、国境を守り、ロシアの影響力を拡大したからだ。ちなみに、セミョーン・デジニョフは、シベリアのトボリスクで正式にコサックとして勤務していた。

 しかし、これらのシベリアのコサックは、ドン・コサックなどとは異なった。つまり、彼らは軍団に統合されておらず、国境警備隊に似ていた。

コサックの宗教と民族は?

 コサックは特定の民族に属していなかった。ドン・コサックのほとんどの祖先は、さまざまな民族が混ざり合っていた。中央ロシア、南方の人々のほか、タタールとポーランド人も入っているため、その民族を一義的に定義することはできない。

 コサックのほとんどは、ロシア正教とその「分離派」(古儀式派)の信者だった。彼らのキリストへの信仰は、民族や居住地以上に彼らの在り方を規定していた。また、コサックの掟と生き方も、多種多様な人々を結びつけ、コサックとして認識される存在を生み出した。

コサックの独特の生き方

 我々は、コサックを目にすると、彼らの髪型、口髭、カラフルな衣装などに驚く。衣装は、北カフカスの人々の衣服に非常によく似ている。なぜなら、それは、温暖な土地に住むプロの騎士の衣装だからだ。

 コサックの少年は、早くも10 歳から騎乗、剣術、射撃を教えられた。コサックの教育は厳しかった。子供たちは、父母といっしょに畑で働き、遊戯さえ戦闘的だった。踊りも、少年と少女の教育で重要だ。コサックはいつでも快活で恐れを知らぬ人たちだから。

 中世以来、コサックは常に、遊牧民の急襲に備えていた。ロシア政府が彼らの自由を非常に長い間容認してきたのはそのためだ。政府は、自分の軍隊により南部国境を効果的に守れるようになるまでは、守り手としてのコサックを必要としていた。

コサックの人口は?

 これは突き止めるのがとても難しい。コサックは税金を払わず、国勢調査にも参加しなかったからだ。19 世紀末~20 世紀初頭の概数しかない。

 1897 年の国勢調査は、コサックの数を初めて示し、約 300 万人と試算した(男子 1,448,382 人、女子 1,480,460 人)。しかし、実数ははるかに多く、帝国全体で約500万人と推定される。 

ソ連時代にコサックはどこにいたのか?

 ソ連時代、多くのコサックが弾圧された。彼らの大半がボリシェヴィキ政権と激しく対立したからだ。そこで同政権は、脱コサック化政策を採用した。

 1918~1924 年にかけて、多くのコサックが処刑され、強制移住させられた者も多数にのぼる。ドン・コサック軍の拠点だった地域には、1917 年に約 450 万人が住んでいたが、1921 年には約 220 万人しか残っていなかった。

 しかし、ソ連軍にはコサック部隊もあった――ロシア帝国のコサック軍の数とは比較にならないが。しかも、第二次世界大戦中のソ連軍のコサック部隊は、あまり効果的ではなかった。騎兵は戦車や飛行機の前には大した戦力でなかったから。

今コサックはどこにいるか?

 現在、コサックを自称する、またはコサック出身だと言う人々は、ロシア、カザフスタン、ウクライナ、さらに世界のさまざまな地域に住んでいる(多くのコサックが、1917 年のボリシェヴィキ革命後にロシアから亡命した)。
 1989年、ソ連最高会議は、コサックに対する不当な弾圧を公式に認め、公式の名誉回復の権利を確認した。そして、ソ連崩壊後の1994年、ロシア連邦政府は次のように宣言した。「コサックの伝統的なロシア国家奉仕の復活は、新ロシア国家形成における一要素である」

 現在、ロシアには、準軍事組織「ロシア連邦の登録されたコサック」がある。これは、ロシアのさまざまな地域におけるコサック・コミュニティを統合している。

 ロシア連邦大統領府では、コサック問題評議会も設けられている。現在、ロシアには約 14万人のコサック(コサック・コミュニティのメンバー)がおり、11 の主要なコミュニティが登録されている。ただし、コサックの子孫の数はこれよりはるかに多い。

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