中国皇帝の親衛隊となったコサックたち:「アルバジン人」の誕生と現在

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 これらのコサックは、清帝国の最精鋭部隊の一つとされ、その子孫は今も中国に生きている。

極東をめぐる露中間の争い

アルバジン要塞の包囲戦

 17世紀半ばに、露中両国は初めて戦場であいまみえた。それ以前は、両国は互いについて漠然たるイメージをもっていたにすぎなかった。その時、コサック部隊がアムール川のほとりに達すると、そこには、ダウール族が住んでいた。彼らは清帝国に貢納していた。

 清は、貢納者の土地に「蛮族」がやって来たことは自分の勢力圏への侵入だと考えた。そこで、中国人と満州人の大部隊がロシア人に向けて送られた(大清帝国は、1616年に満洲で建国され、1644年から中国をも支配した)。主な戦いは、ロシア軍が立てこもるアルバジン要塞をめぐるものだ。この要塞は次第に、ロシアの極東征服における主要拠点となっていった。 

 1685年6月に清軍5千がアルバジンに迫ったとき、要塞の守備隊はわずか450人。兵力でも大砲の数でも10倍の差があったにもかかわらず、中国人と満州人は、練度ではコサックよりはるかに劣っていた。ロシア人は、援軍が来ないことが明らかになるまで、長い間みごとに持ちこたえた。

 名誉ある開城の条件の下で、アルバジン守備隊は、敵に妨げられずに自軍の本拠地に戻ることができた。しかし、中国側は、長く困難な帰路を懸念する者たちに、良い報酬を与えるから自分たちに仕えないか、と持ちかけた。すると、45名のコサックが、中国皇帝に仕官することを希望した。

清軍の最精鋭部隊として

清の第4代皇帝である康熙帝

 ロシア人を清軍に勧誘したのは、時の皇帝、康熙帝みずからの考えだった。彼は、最初の衝突を見て悟った。ロシア人は、危険で強力な敵であり、極東から簡単には駆逐できない、と。そういう精兵は自分にも有用であると、皇帝は判断したので、コサックたちを喜んで可能なかぎり自軍に加えた。

 こうした政策により、計100人以上のロシア人が清帝国の軍隊に加わった。自分の意志で加わった者もあれば、戦いで捕虜となり、異国の地にとどまることに決めた者もいた。彼らはすべて、「アルバジン人」として、歴史上知られている。これは、さっき述べたアムール沿岸のアルバジン要塞とその最大の義勇兵部隊の名にちなむ。

 コサックたちには、大いなる名誉が与えられ、世襲の軍人階級に組み込まれた。この階級は、清の社会構造のほぼ最上層であり、特権的な貴族だけがより上位にあった。

 アルバジン人は清のエリート部隊に属し、皇帝直属だった。エリート部隊というのはつまり、支配階層だった満洲人が属した社会組織・軍事組織「八旗」であり、一つの「旗」には最大1万5千人の兵士が所属した。コサックたちは、この「八旗」の一つ「鑲黄旗」に編入されたわけで、みずからの「ロシア中隊」を有していた。

 近衛部隊の「旗」には、ロシア人のほかは満州人貴族の子弟しか入れず、漢人は入れなかった。

豊かな暮らし

アルバジン人が北京の教会にて

 アルバジン人は、ありとあらゆる恩恵を受けた。住宅、耕地、金銭、米などが支給された。家族持ちでない者(彼らの大半はそうだった)は、地元の漢人、満州人を妻として与えられた。彼女らは、処刑された犯罪者の妻妾だった。 

 中国当局は、ロシア人兵士の信仰には口を出さなかった。それどころか、古い仏教寺院をコサックのために提供したので、彼らはそれを教会に改造した。その前には、彼らは、カトリックの「宣武門天主堂」(通称は「南堂」)に祈りに行かねばならなかった。

 中国では、アルバジン人のおかげで、とくにマクシム・レオンチェフ司祭の活動により、正教会の礎はより堅固になった。司祭は、アムール河畔のアルバジン要塞が開城して、北京にやって来たのだった。彼は、中国初の正教会司祭であり、あらゆる儀式を執り行い、洗礼を授け、正教徒を結婚させ、葬った。つまり、北京のロシア人居住区の冠婚葬祭すべてに立ち会った。

 「正教の信仰が彼ら(中国人)に光を開き示した」。トボリスクと全シベリアの府主教イグナーチイは、レオンチェフ司祭についてこう述べている。

 にもかかわらず、コサックは怠惰な生活を送るために雇われたわけではなかった。清軍の遠征のいくつかに彼らが参加したことが知られている。例えば、西モンゴルに対するものだ。さらに、アルバジン人は宣伝にも利用された。彼らは、自分の元仲間たちに中国皇帝の側につくよう説得した。 

落日

アルバジン人、天津にて

 しかし、やがて中国とロシアは、国境紛争を解決し、清の「鑲黄旗」を掲げた「ロシア中隊」の軍事的、政治的意義は低下し始める。その任務は主に、首都での護衛に限定されていく。 

 アルバジン人自身も変貌する。地元の漢人や満州人と混血して、数世代後には、ロシア人らしい特徴はすべて失った。にもかかわらず、彼らは依然として正教の信仰を標榜し、特権的な地位をしばしば鼻にかけていた。北京を訪れたロシア人旅行者が19世紀末に記したところでは、アルバジン人は、「道徳的にはせいぜい無為徒食の輩であり、最悪の場合は酔っ払いか悪党だ」。

 中国のコサックは、1900年の義和団事件で深刻な試練に遭う。義和団の蜂起は、中国の外国人支配とキリスト教に対して向けられたものだった。数百人のアルバジン人が犠牲になり、死を前にしても、信仰を棄てることを拒んだ。 

 1912年に辛亥革命で清帝国が崩壊すると、コサックの子孫は、新しい生計の手段を探さねばならなくなった。彼らの多くは、警察官になったり、ロシア・アジア銀行やロシア正教宣教のための印刷所で働いたりした。

 毛沢東の文化大革命は、中国のあらゆる「異分子」を槍玉に挙げ、アルバジン人社会にも新たな打撃を与えた。迫害の結果、多くの者が自分たちのルーツを放棄せざるを得なくなった。 

 にもかかわらず、現代の中国においても、自分はアルバジン・コサック――中国皇帝のエリート部隊――の子孫だと考える人々がまだいる。彼らは、ロシア語を知らず、外貌も中国人と区別できない。それでも、彼らはまだ自分たちの出自を記憶している。

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