ボリース・クストーディエフの「ボリシェヴィキ」(1920年)
トレチャコフ美術館ヴァシーリー・スリコフ。「スチェパン・ラージン」(1907年)。画布、油彩。国立ロシア美術館。
Sputnikコサック、農奴らによる「ステンカ・ラージンの乱」は、ロシア史上最大の反乱の一つだ。ロシアにおける農奴制の強化と、ポーランド、スウェーデンとの長期戦による国の荒廃とがあいまって生じた。
ドン・コサックのアタマン(首領)、スチェパン(ステンカ)・ラージンはその旗の下に、何万ものコサックと農民を集結させた。彼らは、貴族に権利を圧迫されて怒り、貴族、官吏を攻撃対象とした。ラージンの軍隊が奪ったすべての都市で、貴族が血祭りに上げられた。
ラージンは、ロシア南部からモスクワに向けて進撃し、途上の都市を次々に陥落させていった。そして、麾下に加わった農民には自由を約束して、軍の勢力を拡大していく。しかし、1670年のシンビルスクの戦いで、反乱軍は敗北し、ラージンら指導者は、その後間もなく政府軍に捕らえられた。
ラージンは、モスクワの「赤の広場」で、四つ裂きの刑に処され、彼の何千人もの追随者たちも残酷きわまる処罰を受けたため、目撃者は非常な衝撃を受けた。
ヴァシリー・ペロフ。「プガチョフの裁判」(1875年)。
ロシア国立歴史博物館エメリヤン・プガチョフは、ドン・コサックの出身。彼が率いたコサック、農民らによる反乱は、ステンカ・ラージンの乱と多くの共通点がある。
この1世紀前のケースと同じく、プガチョフの乱に参加したコサックと農民は、彼らの権利と特権が国家と貴族によって抑制されていることに大いに不満だった。
コサックのプガチョフは、実は自分は「奇跡的に救われた」皇帝ピョートル3世であると宣言した(実際には、ピョートル3世は、妻であるエカテリーナ2世のクーデターで、廃位、殺害されていた)。この僭称者は、自分が帝位に就いたあかつきには、彼らに自由、福祉、繁栄を約束すると宣伝して、約7万人にのぼる巨大な軍隊を集めた。
反乱軍は、ロシア南部の、ウラル山脈とヴォルガ川にまたがる広大な領域を勢力下に置き、これらの地域の多数の要塞と小都市を占領し、派遣された政府軍をすべて破り、ロシアの支配層を恐怖のどん底に陥れた。
しかし1774年には、反乱軍は当初の勢いを失い、敗北を重ね、ついに鎮圧される。翌1775年、プガチョフその他の首謀者は、モスクワに連行され、そこで処刑された。
ヴァシリー・チッム。「1825年12月14 日に行なわれた元老院広場での乱。親衛隊の騎兵隊」。
エルミタージュ美術館1813年、ロシア軍は国内からナポレオンを駆逐し、ヨーロッパに入る。パリに入城し、ナポレオンの帝政に終止符を打ったとき、ロシア軍の将校たちは、欧州の生活を身近に見る機会があった。ロシアが欧州に大きく遅れをとっていることを多くの将校は認めざるを得ず、彼らは、この状況を変えねばならぬ、と思った。
彼らはいくつかの秘密結社を結成して、農奴制を廃止し、帝権を制限あるいは完全に廃止し、ロシアで抜本的な改革を行うことを目指した。
1825年12月26日、サンクトペテルブルクで、新帝ニコライ1世への宣誓式に際し、彼らは行動を起こした。しかし、彼らの混乱と躊躇の結果として、デカブリスト(「十二月党員」の意味。後にこの名で知られるようになった)は、皇帝を暗殺することも、政府軍を寝返らせることもできなかった。
反乱は鎮圧され、指導者たちは処刑され、他のメンバーは、シベリアと極東に追放された。
マルツイン・ザレスキ。「ワルシャワでの兵器工場の攻撃」(1831 年)。
ワルシャワ国立美術館1795年、ポーランドは、ロシア、プロイセン、オーストリアにより分割された後、欧州の地図から消えた。しかしポーランド人は、独立を回復する希望を失わず、1830年に大規模な蜂起を組織した。11月蜂起、またはポーランド・ロシア戦争(ポーランドでの呼称)の目的は、分割前のような形で国を復活させることだった。つまり、バルト海から黒海にいたる広大な領土をもつ国を。
反乱はポーランド、ウクライナ、リトアニアの広大な領域に及び、ポーランド側は、パルチザンをのぞいても、15万人以上の兵力を有していたと推測されるが、ロシア軍に鎮圧される。
その結果、ポーランドは、ロシア帝国における特別な地位と権利、例えば自身の憲法と軍隊をもつ権利を失った。こうして、ポーランドを単なるロシアの一地方に変えるプロセスが始まる。
ウラジーミル・マコフスキー。「ワシリエフスキー島での1905年1月9日」。
Sputnik1905年のロシア第一次革命は、実質的に、やがて来る1917年の革命に向けての総リハーサルとなった観がある。1917年のロシア革命は帝国にとどめを刺した。生活水準の低さ、言論の自由の欠如、そして日露戦争における惨敗は、1905年にデモや暴動を引き起こした理由のほんの一部にすぎない。
1905年1月22日、サンクトペテルブルクで、平和なデモが兵士に銃撃され、数百人が殺害された後(この事件は「血の日曜日」として知られるようになる)、騒乱はこの巨大な国の全体に広がった。
皇帝ニコライ2世が、自らの主権を制限し、国会(ドゥーマ)を開設し、労働条件を改善することに応じ、譲歩を認めたときにようやく、1905年革命は収束した。これは、次のはるかに恐ろしい革命まで、10年間の小休止を国に与えた。
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