1942年東京空襲の隠れた後日談:ドーリットル隊のパイロットたちがなぜソ連で拘束されたか?

米空母ホーネットに載せたB-25

米空母ホーネットに載せたB-25

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 1942年4月の有名なドーリットル空襲。これに参加した1機は、ソ連領に着陸している。乗員はすぐソ連を去りたがったが、代わりに、この国の半分を横断する13か月の長旅に出る羽目となった。

 1942年4月18日、アメリカ機が第二次世界大戦中に初めて日本の領土を攻撃した。16機の爆撃機「B-25ミッチェル」が東京と他のいくつかの都市の軍事、産業施設を空襲した。  

  いわゆる「ドーリットル空襲」(空襲を指揮したジェームズ・ドーリットル中尉にちなんでこう呼ばれる)は、前年の12月7日(日本時間8日)に日本軍が真珠湾の米太平洋艦隊基地を奇襲したことへの報復だったが、その影響は、米国民の士気の高揚、日本軍の戦線拡大とその破綻など、多方面に及んだ。

1942年4月18日、ドーリットル空襲。空襲を指揮したジェームズ・ドーリットル中尉とマルク・ミットセール大尉

 日本海軍の哨戒艇が、密かに日本沿岸に移動している米空母艦隊を早期に発見したため、米爆撃機は予定よりもはるかに早く発艦しなければならなかった。

 爆撃機は予備のガソリン缶を積んでいたが、それでも足りない可能性があった。というのは、爆撃機の帰投先は、すでに危険な海域を離れていた空母ホーネットではなく、はるか彼方の同盟国、中国の飛行場だったからだ。

空母ホーネットに載せたB-25B

 しかし、ドーリットル隊の全機が蔣介石の国民党軍の勢力圏へ突破できたわけではない。 エドワード・ヨーク大尉機の乗員は、残りの燃料では中国に行き着けないと計算し、米国のもう一つの同盟国、ソ連に向かうことにした。だが、米パイロットがソ連に行くことは固く禁じられていた。

 

予期せざる客人

ドーリットル隊所属のB-25

 当時、ソ連と米国は確かに同盟関係にあったが、それはヨーロッパでの対ナチス・ドイツ戦争にのみ適用された。ソ連は、1941年4月13日に日本と、日ソ中立条約を結んでいたので、太平洋での戦争には関与できなかった。そして、太平洋地域にあって、そこで戦っているすべての国の軍隊を直ちに拘留、武装解除する義務があった。

空母ホーネットから発艦するドーリットル隊所属のB-25爆撃機。

 ソ連の海岸線に沿ってウラジオストクを迂回した後、ヨーク大尉のB-25は、ソ連のシソエフ岬付近に侵入する。そこで、ソ連の太平洋艦隊の防空部隊によって発見された。しかし、防空部隊は、帰還したソ連の爆撃機Yak-4だと見誤り、警報を発しなかった。

 夕方5時半、ナホトカ港から数十キロ離れた軍用飛行場「ウナシ」に米機が現れたとき、迎撃の準備ができていた2機の戦闘機I-15が発進。しかしソ連機は、この時には燃料が尽きていた米爆撃機が着陸するのを妨げなかった。

 ソ連の軍人は、5人の米国人(2人のパイロット、および航法、無線の担当と銃手)を見て非常に驚いたが、暖かく迎え、宿泊場所と食事を与えた。そして、すぐに太平洋艦隊航空部隊の副司令官、グバノフ大佐が通訳とともに飛行場にやって来た。

ソ連に緊急着陸したドーリットル隊のB-25爆撃

 当初、米国人は、自分らはアラスカから飛んできたと言った。 しかし、グバノフ大佐は東京空襲を知っていたので、空爆への参加を認めざるを得なかった。

 「私は、彼がガソリンを提供してくれるかどうか尋ねた。そして、そうしてくれれば、早朝に中国に飛ぶと言った。彼は同意した」。ヨーク大尉は1943年にこう振り返っている

 しかし、事はそう簡単ではないことが分かった。ソ連は、東京を爆撃したパイロットを放免するわけにはいかなかった。極東で空前の勢力圏を築いていた日本からの厳しい対応を呼び起こしかねなかったからだ。

 しかしその一方で、ソ連は、新しい同盟国、米国と事を構えたくもなかった。米国は、レンドリース法(武器貸与法)に基づき、ソ連に武器と物資を供給し始めたばかりだったからだ。

 その結果、ソ連当局は、B-25を接収し、その乗員を拘束して、駐ソ連・米国大使のウィリアム・スタンドリーに対し、形式的に抗議した。が、その一方でソ連は、米政府に対し、関係者すべての利益にかなう解決策を見出すよう努力する、その間、米軍人は正常で快適な条件で滞在できると、非公式レベルで保証した。

 

ソ連の半分を横断

ソ連のヨシフ・アパナセンコ大将

 米機の乗員はハバロフスクに送られ、そこで、極東戦線の司令官、ヨシフ・アパナセンコ大将と会った。大将は、彼らが拘留されると伝えた。

 それ以来、米国人の長旅が始まり、シベリア全土からウラル山脈、ヴォルガ川のほとりまで、汽車、飛行機、船に乗って、さまざまな都市や小村に数週間ずつ住むことになった。米国大使館は、被拘留者の動向のすべてについて、定期的に情報を受けた。

 米国人たちは、カマ川のほとりにある小さな町オハンスクで丸8か月間過ごし、無聊に苦しんでいた。

エドワード・ヨーク大尉

 「そこに着いてから4か月後、最後の護衛たちが去り、我々は自分たちだけで家に住んでいた。 街を自由に歩き回ることもできた。この頃までに我々は、多少ロシア語を覚えたので、立ち止まって身分証明書の呈示を求められたら、自分たちが何者かを説明することができた。もちろん、彼らは、我々の素性を承知していたが。そもそも街の住民のほとんどが知っていた」。ヨーク大尉は回想している。  

オハンスク

 米国の外交官は数度、乗員たちと会うことを許された。1942年9月、乗員らは、当時ソ連でアルシブ空路(アラスカ―シベリア)を管轄していたオマール・ブラッドレー将軍と話をすることがでた。この空路で、米国から軍用機がソ連に飛来していた。

 米乗員らが脱走を考えていることを知ったブラッドレーは、そんな考えは捨てて、抑留の条件に違反しないように強く勧めた。

 にもかかわらず、結局、脱走は起きた。そしてそれを組織したのは米国人ではなく、ソ連の情報機関だった(!)。

 

「脱走」

 抑留されたB-25乗員の状況は、1943年初頭に変化し始める。ヨーク大尉の妻はルーズベルト米大統領に乗員の釈放を請願し、大尉もスターリンに解放を求めた。一方、ソ連の指導部も今や、この問題の扱いにさほど神経を使わなくなった。

 それは何よりも、戦争の新たなターニングポイントが生じたためだった。スターリングラードでのドイツ軍の敗退、ガダルカナルでの日本軍の敗北が、その原因だ。

 とはいえ、米乗員らをただ解放することはまだ無理な話だった。そこで、ソ連の秘密警察「内務人民委員部」(NKVD)は、彼らがソ連とイランの国境を越えて脱出するよう図ることを指示された。その際、米国人自らが、自身のイニシアチブで行動に出たと思い込むように仕向けねばならなかった。

 1943年3月、乗員らはソ連の南部に送られ、トルクメニスタンの首都、アシガバートの飛行場の1つで作業することになった。 彼らがアシガバートへ汽車で移動する際に、その車中で、NKVDのウラジーミル・ボヤルスキー少佐は、アレクサンドル・ヤキメンコ赤軍少佐という触れ込みで、乗員らと親しくなり、現地でも彼らと連絡を取り合った。ボヤルスキーはすぐに、自分が米国人の窮状に同情し、帰国の手助けを本気でしたがっていると信じ込ませた。

 「トルクメニスタンに着いた最初の日から、国境警備隊といっしょに私は、米国人が国境を越えるために準備をした」。ボヤルスキーは回想している

 「肝心な点は、米国人自身がソ連脱出の準備をしたと、彼らに信じさせることだった。このために、アシガバートの南東約20 kmの、イランに近い所に、偽の国境線と検問所を設置し、ソ連・イラン国境を装った」

 ボヤルスキーは、密輸業者になりすました別のNKVD将校に米国人を紹介した。この将校が250ドルで、トラックで「国境」まで彼らを運ぶ筋書きだ。そして、米国人はこっそりと「国境」を超え、その向こう側で待ち構える「密輸業者」がまた彼らをピックアップする手はずだった。

 「月明かりの下、米国人たちは、周りを見回してひざまずき、ロシア人がこしらえた鉄条網の下を這ってくぐった。その様子は実に見ものだった。この場所で、我々は、違法な国境突破の『現実』を巧みにつくり出した…」。ボヤルスキーは5月10~11日の「脱走」の夜をこう回想する

 「イラン側」で米国人をピックアップすると、「密輸業者」は彼らを、本当の国境検問所に妨害なしに運んだが、これは実際たやすいことだった。

 1941年8月に、親ドイツのイランに、ソ連はイギリスとともに侵攻しており、その後、ソ連軍はこの国の北部に駐留していたから、ここのイラン国境はほとんど管理されていなかったからだ。

 マシュハド市に到着すると、何も気づかずじまいだった米乗員らは、英国領事館に行き、5月24日にワシントンにいた。

 ソ連における13か月の長旅が終わってから数年後、銃手のデイヴィッド・ポールは、自分たちの脱走はすべて、ソ連の参謀本部とNKVDが仕組んだのではないかと疑い出した。しかし、副操縦士のロバート・エメンスはそれに賛成しなかった

 「我々の脱走は本物だった。脱走には、我々の有り金ぜんぶが必要だった…。我々が彼(ヤキメンコ)と別れたとき、彼は我々一人一人に熱烈にキスをした…。彼の目に涙が浮かんでいた」

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