なぜソ連のエースパイロットは米国の戦闘機P-39を愛したか

北方艦隊空軍の親衛隊第二戦闘航空団のパイロット、イワン・グルダコフ(左側)とニコライ・ディデェンコはP-39の前に

北方艦隊空軍の親衛隊第二戦闘航空団のパイロット、イワン・グルダコフ(左側)とニコライ・ディデェンコはP-39の前に

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 米国が開発したP-39は、祖国には根付かなかったが、ソ連では真のスターとなった。より速くて強い飛行機が登場した後も、ソ連最高のパイロットらはP-39に乗り続けた。

戦闘機P-39とP-63はソ連に大量送られた。

1. 米国人はこの飛行機があまり気に入らなかった。ベルP-39戦闘機「エアラコブラ」は、高い高度で本領を発揮できず、「空飛ぶ要塞」B-17大型爆撃機に同行したり、主に西部戦線でドイツ空軍のエースと戦ったりするのに適さなかった。西側の連合国はエアラコブラを手放すことを厭わず、武器貸与法の一環でこれをソ連に大量供給した。ソ連空軍は合わせて5000機近いP-39を手に入れた。これは製造された全機数の半分以上に当たる。 

P-39戦闘機「エアラコブラ」の前に立ている第101戦闘機航空連隊のパイロットたち

2. ソ連ではP-39は全く逆の扱いを受けた。東部戦線に特徴的だった低・中高度での空中戦では、この戦闘機はかけがえのないものだった。エンジンがコックピットの後ろにあるという特殊な構造により、同機は機動性、速度、空気力学的特徴、視界に優れていた。一方で、安定性と操作性には難点があり、一つミスを犯せば錐揉み降下の状態に陥ってしまった。エアラコブラは初心者には扱えない、熟練パイロット向きの飛行機だった。 

3. ソ連のパイロットはP-39の37 mm機関砲(初期のモデルでは20 mm)を高く評価していた。「弾薬は非常に強力だ。ふつう、敵機に一発当たればそれでおしまいだ」とパイロットのニコライ・ゴロドニコフは回想している。「しかも、標的は戦闘機だけではなかった。爆撃機や船舶に対しても、37 mm弾は非常に効果的だった」。

4. ただ、P-39に搭載された4丁のブローニング7.7 mm機関銃に対する評価は控えめだった。この銃では敵機に損傷を与えるだけで撃ち落とせないことがあったからだ。たいてい機械工らは、戦闘機の重量を減らして機動力を高めるため、4丁のうち2丁を取り除いてしまうのだった。

エアラコブラは、ぬかるんだり雪が積もったりした飛行場でも問題なく着陸・滑走できた。

5. エアラコブラは、ぬかるんだり雪が積もったりした飛行場でも問題なく着陸・滑走できた。これは西部戦線や太平洋では大した意味を持たなかったろうが、気候の厳しいソ連では大きな利点だった。ただ、P-39のアリソンV-1710エンジンはロシアの極寒に適さず、しばしば故障した。ソ連の専門家らの要請でベル社が行ったエンジンの改良により、状況は良くなった。

ソ連の航空機技師はP-39戦闘機を修理する。

6. 細かい点ではドアが問題だった。エアラコブラのドアは自動車のドアのようで、パイロットが地上で飛行機に乗り込むには便利だが、空中で緊急脱出した際にパイロットが尾翼に打ち付けられる危険性があった。このためソ連のパイロットは、飛行機が損傷を受けてもできるだけ長くとどまり、滑走路に到達しようと試みるのだった。ちなみにP-39は耐久性に優れていたため、その成功率は高かった。完膚なきまでに蜂の巣にされたエアラコブラが戦場から無事に戻ってくることも稀ではなかった。 

飛行場で郵便物を受けるソ連の兵士

7. エアラコブラは、北極圏からコーカサス地方まで、独ソ戦のあらゆる戦線で戦った。1943年4月~6月のクバン上空での航空戦でソビエト空軍はドイツ空軍に対して初めて大勝利を収めたが、これにはP-39が大きく貢献した。なお、この戦闘では両軍から2000機以上の飛行機が参加した。 

8. 1942年9月9日、ムルマンスク地方において、エフィム・クリヴォシェエフ親衛中尉がエアラコブラに乗って史上初めて空中で体当たりを行った。弾を撃ち尽くした彼は、自分の指揮官パーヴェル・クタホフの飛行機にメッサーシュミットが追尾しているのを見た。彼は躊躇なく敵戦闘機に突っ込み、自分の命を犠牲にして仲間を救った。

アレクサンドル・ポクルィシキン(ヘルメットをかぶる方)を祝う同僚たち、第16戦闘機航空連隊、1944年の夏。

9. 扱いが難しいが効果抜群のP-39は、精鋭中の精鋭に与えられ、主に親衛隊の部隊に配備された。アレクサンドル・ポクルィシキン、グリゴリー・レチカロフ、アレクサンドル・クルボフ、ニコライ・グラエフ、ドミトリー・グリンカとボリス・グリンカの兄弟など、ソ連の名だたるエースパイロットがこの米国製戦闘機に乗っていた。ポクルィシキンは、敵機59機を撃墜して連合軍の戦闘機パイロットの中で2番目の成績を誇ったが、うち48機をP-39に乗って仕留めていた。レチカロフも56機中50機をこの戦闘機で撃ち落とした。大戦末期には速度と機動性がより優れた飛行機がソビエト空軍に登場したが、多くのソ連軍パイロットは自分たちを決して裏切らないエアラコブラに乗り続けた。

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