独ソ戦の間だけでも400万人のソ連国民が負傷や病気で復員した。うち約250万人が傷痍軍人となり、50万人が手足を失った。ソ連国家は、祖国を守りながら絶望的な障がいを負ったり部分的に活動能力を失ったりした人々のリハビリや社会復帰の支援に取り組んだのだろうか。書類上は取り組んだことになっている。実際には、ソ連における障がい者の境遇は精神病患者や囚人とあまり変わらなかった。
革命以前の帝政期のロシアでは、パーヴェル1世の妻マリア・フョードロヴナが創設した「マリア皇后庁」という特別な国家機関が、身体障がい者や知的障がい者の支援に取り組んでいた。1828年の皇后の没後、庁は皇帝の個人官房の附属機関となった。つまり、皇帝個人の管轄になったのだ。マリア皇后庁はあらゆる慈善活動、貴族の子弟の教育の大部分を管理し、孤児院の統轄や視覚・聴覚障がい者の支援を行い、慈善学校や職業学校を運営していた。制度に関わる費用は主に国庫で賄われ、また個人の寄付も受け付けていた。
井戸で水を汲む障がい者、1901年
Public Domainボリシェヴィキが政権を取ると、慈善活動は個人ではなく国家の特権となった。1918年4月30日(17日)付の人民委員会議の議決では、「慈善と施し」は「旧時代の遺物」とされた。レーニンは、ソビエト国家は富裕者からの寄付を受け付けるのではなく、どんな生活水準の者に対しても、必要に応じて定期的に社会支援を提供するべきだと考えたのだ。そのために社会保障人民委員部が創設された。しかし1920年代から1930年代、実際に支援を受けられたのは、元赤衛兵や元赤色パルチザンの傷痍軍人だけだった。「普通の」障がい者は他の健常なソビエト国民と同じ条件下で困難を乗り越えなければならなかった。
内戦後のソビエト・ロシアは社会から孤立した人々、浮浪者、身寄りや家を失った人々で溢れた。ドミトリー・ソコロフは「生活から抹消された人々:ソ連の障がい者の運命」という記事で、「こうした人々の多くは街の『清掃』政策の犠牲者となった。当局はモスクワやレニングラード、ハリコフ、ソチの路上で人々を逮捕し、生活に適さない地域の居住地に送られた」と記している。一から作られた未熟なソビエト民警は、単に身分証明書を持たない者を路上で逮捕してノルマを達成することを優先していた。1933年春だけで、約39000人がシベリア西部に送られ、オムスク合同国家政治保安部執行部門の報告によれば、その中には「かなりの数の障がい者、老人、幼児を連れた女性」がいたという。障がい者は鉱山で働き、シベリアの沼地のテントやバラックで他の移住者と同じ条件で暮らした。
大都市での障がい者の境遇については、「大粛清」指揮官の一人、レオニード・ザコフスキーの言葉がよく表している。1938年、ザコフスキーはレニングラードから内務人民委員部モスクワ管理局の上層部に異動した。当時モスクワの刑務所には、収容所送りを待つ障がい者が大量に収容されていた。「レニングラードでは、ただ銃殺の手続きをして、おしまいだ。なぜ収容所で彼らの世話をする必要があるのか」とザコフスキーは「困惑」している。
レオニード・ザコフスキー
Public Domain1937年、レニングラードでこのザコフスキーが関与して「聾唖者事件」が捏造され、34人の聴覚障がい者がファシスト組織創設の罪で銃殺された。1938年2月、刑務所に新たな囚人を収容する余裕を作るため、モスクワで約170人の身体障がい者、視覚障がい者、結核患者、心臓病患者がザコフスキーの決定で処刑された。恐ろしいのは、障がい者や重病者のリハビリに予算を出したくない政権が、彼らが働けないこと自体を「罪」と見なしたことだ。
戦後ソ連の路上ではよく「ストレッチャー」に乗った身体障がい者が見られた。ストレッチャーと言っても、軸受でできた4つの車輪を取り付けた単なる板だ。脚を失った傷痍軍人がそれに乗り、取っ手付きの文鎮状の木片(路面をよく捉えるように雑巾を巻き付けていた)で漕ぎながら進んでいた。全員分の車椅子を用意するなど論外だった。さらにソ連では快適な車椅子の生産態勢は最後まで整わなかった。労災で身体障がい者となり、ソ連の障がい者の権利向上を求めて闘ったワレリー・フェフョーロフはドイツのコレスポンデント紙のインタビューでこう回想している。「ソ連の車椅子は重く、約40キログラムに達する。かさばって不便だ。折り畳めず、旅行に持っていけない。エレベーターは扉の間隔が狭いので乗れず、いくつか段が必要だ。でないと各建物の入り口の階段すら、乗り越えられない障壁だ」。
ソ連の住居の規格は車椅子の使用者を想定していなかった。入口にも、道にも、病院やその他の国家施設にも、障がい者用のスロープはなかった。障がい者が他の町に行こうとすれば、数人の大人が物理的に手伝う必要があった。障がい者自身が社会保障を担当する役所を訪れることができないということが、社会的権利を求める障がい者の闘いを難しくしていた。
1950年代、当局は独ソ戦から復員した傷痍軍人を特別療養所に移送することで「片付け」始めた。最も有名な悲しい療養所はヴァラアム島にあった。もちろん、多くの傷痍軍人は戦後身寄りもなく、療養所や特別施設はしばしば、彼らがせめてもの支援と住まいを得られる唯一の場所だった。身寄りのある者はアパートで家族と暮らすことを運命付けられた。
生活を楽にする手段、例えば簡単な義足や車椅子、自動車を得ることは極めて難しかった。極めて質の悪い車椅子さえ、無償で提供されたのは5年間で、受け取るまでに数ヶ月から数年待たなければならなかった。機械化された補助器具や義足・義手はソ連には単純に存在しなかった。冷戦下では外国のそうした製品を買うことも禁じられていた。
障がい者には年金が支払われたが、ソ連の平均収入より少なく、自立した生活を可能にするものではなかった。ワレリー・フェフョーロフによれば、1980年代ですら第1級の障がいを負う重度障がい者でも月額120ルーブルしか受け取れなかったという。平均月収は170ルーブルで、男性用コートの値段は150~200ルーブルだった。障がいを持つ子供に至っては、当時月額20~30ルーブルの手当しか受け取れなかった。「私は社会保障を受けた。袋詰めの乾パンをもらった。さて問題は、どこで入れ歯を手に入れるべきか」とソ連国民は悲しげに皮肉ったものだ。
制度上多くの障がい者が、社会保障機関の管轄する「障がい者施設」への入居を余儀なくされた。こうした機関に養われることになった人々は、事実上法制度から排除された。権利を求めて闘い始めたのが、脊椎骨折で下半身不随となったワレリー・フェフョーロフだった。17歳の時、電気工事士だった彼は、同僚が電気を止めていなかったために電線から落下したのだ。
ソ連で障がい者に権利がない状態を許すわけにはいかないと、フェフョーロフは国家機関を回り、他の障がい者たちと手紙のやり取りをした。ドイツで1986年に出版された自著『ソ連に障がい者はいない!』(«В СССР инвалидов нет!»)でフェフョーロフは、特別施設の障がい者がどんな条件下で暮らしていたのかを語っている。
ワレリー・フェフョーロフ(右)と自著『ソ連に障がい者はいない!』(左)
V. Fefelova「障がい者施設内部規律規則」では、彼らは子供を持つことを禁じられていた。子供が生まれれば、母親から無理やり取り上げて国の養育施設に送った。したがって、性別の異なる障がい者が近しい関係であった場合は、彼らは原則として別々の階や別々の棟に入れられた。同じ「規則」には、精神的に健全な障がい者と精神病患者が一緒に暮らすことも定められていた。
「サービスが悪く、地下室のように寒い」と文通相手の一人がフェフョーロフに伝える。「食事も酷い。ニシンが出ると臭い。卵は腐り、黍粥は塩辛くて肉がない。こんな食事では胸がむかつく。障がい者は首を吊ったり、近くの川に飛び込んだりして自殺している」。こんな場所から逃げることはできなかったのだろうか。移動に困難のある障がい者にとって、逃げ出すことは物理的に不可能だった。自分で歩ける者にも、靴や上着は与えられなかった。
障がい者施設で起こる無法行為は裁判に掛けることができなかった。フェフョーロフがサラトフ州人民裁判所に現地の障がい者の家で文通友達が虐待を受けていると書面で陳情を出すと、次の答えが返ってきた。「障がい者施設は社会保障省の管轄であり、裁判所の管轄外である」。当時社会保障省は完全に権威主義的に運営されていた。それはドムナ・コマロワが1967年から1988年まで21年間ずっと大臣を務めていたことからも明らかだろう。
結局国家は障がい者を利用して臆面もなく稼ぐようになった。1936年と1977年のソビエト連邦憲法で「各人からはその能力に応じて、各人にはその労働に応じて」という標語が謳われていたにもかかわらず。障がい者は紙袋や封筒を作り、ビーズや戸締り金具を作り、扉や窓の蝶番、電気スイッチを作り、網袋を作り、葬儀用の花飾りを作り、羊毛の服を作った。これらはすべて国家によって現金化された。
フェフョーロフは1980年代の次のような統計を引用する。「ロシア連邦だけで特別に創設された200の実習生産企業で58000人の視覚障がい者が働いている。こうした企業は平均で毎年5億4000万ルーブル相当の製品を販売している。つまり協会の各労働者が年間1万ルーブル近い製品を作り出していることになる」。これを、ただでさえ受給の権利について社会保障担当の役所で定期的に確認しなければならなかった障がい者年金の額と比べてほしい。障がい者の給料は微々たるものだった。例えば、「金属製の留め具を靴のバックルに(手作業で)取り付ける作業の報酬は1000個につき47.4コペイカだった」。
障がいを負ったスポーツ選手のリハビリはソ連には全く存在しなかった。フェフョーロフによれば、ストーク・マンデヴィル(英国)のスポーツ大会の主催者が、ソ連の障がい者がこの国際大会に参加できるか否か問い合わせたところ、ソビエト政府から「ソ連に障がい者はいない」との回答があったという。1976年トロント・パラリンピックの組織委員会も同様の回答を得ている。「想像してほしい。障がい者とスポーツだと?!障がい者の車椅子競走やボール投げをやらせるなど、障がい者に対しても観客に対しても非人道的だ」――フェフョーロフはKGB大佐のウラジーミル・シバエフのこのような発言を引用している。「ソ連に障がい者はいない!」という言葉はフェフョーロフの本のタイトルにもなっている。彼はKGBの迫害を受け、1982年にソ連からの亡命を余儀なくされた。
1976年、モスクワ・ヘルシンキ・グループが、この許し難い状況に世界とソ連社会の注意を向けようと、「障がい者の境遇について」という文書を広めた。「障がい者は事実上相応しい仕事や教育、休暇、良い食事、治療、普通の私生活、体操、スポーツを実践する権利を奪われている」。これは障がい者の中の反体制派に当局の注意を向けただけだった。1978年、フェフョーロフと彼の支持者がソ連障がい者権利保護イニシアティブ・グループを作り、会報の発行を始めた。グループは障がい者年金の番号制の導入、補助器具や快適な車椅子の生産の開始、バリアフリーな市街環境の整備、障がい者社会保障制度の改革を求めた。
グループが国際的な障がい者組織との接触を試みたことで、グループの住所宛に国外から手紙や招待状が押し寄せた。これもフェフョーロフと仲間が迫害を受ける原因となった。彼らは家宅捜索を受け、家族はKGBに呼び出されて権利を求める活動家を止めるよう説得された。グループのメンバー、エレーナ・サンニコワは1984年に1年の禁固刑と4年の流刑の判決を受け、フェフョーロフは家族とともに追放先の西ドイツに1983年に亡命した。
ソ連のパラリンピック代表がパラリンピックに参加したのは1988年のことだ。いきなり55個のメダル(金メダル21個、銀メダル19個、銅メダル15個)を獲得し、総合成績で12位となった。現在でもロシアの障がい者をめぐる問題の多くは未解決のままで、社会保障制度はソビエト時代のそれを大いに彷彿とさせるが、ソ連の反体制派障がい者の闘いは無駄ではなかった。2006年の冬季パラリンピックでロシア代表が初めて総合成績で1位となったのだ。ワレリー・フェフョーロフはこの勝利をしっかりと見届けた後、2008年に他界した。
2014年のパラリンピックにて
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