「じいさんの毛皮コートは快適だ。何と言うか、自分の家を着ているといった感じかな。今日、外は寒いかと聞かれても、答えようがない。知りようがないじゃないか?」。20世紀前半のロシアを代表する詩人の一人、オシップ・マンデリシュタームは、ロシアの毛皮外套「シューバ」についてこう書いている。確かに、良いシューバがあれば、厳寒の中でも身体を温かく保てる。
「家族」
Sergey Ivanov「シューバ」というロシア語は、「長袖の外套」を意味するアラブ語「ジュバ」に由来すると考えられている。ロシアでは古代から、毛皮は常に高価だった。
膝までの長さのシューバをつくるには、50~60匹ものテンまたはギンギツネの毛皮を必要としたので、シューバを着るのは豊かさのしるしだった。では、一般人は何を着ていたか?羊や野ウサギでつくられたコートならば、テン、ギンギツネ、クロテン(セーブル)などよりもはるかに安く手に入りやすかった。
現在のロシアの源流となった古代国家、キエフ・ルーシの時代、さらにはその後のロシアでも、13世紀のモンゴル帝国来襲以前は、毛皮がお金として使われていた。中東やヨーロッパに輸出もされ、銀と金に交換された。だから、毛皮の商いは、ロシアにおける貨幣鋳造のための貴金属使用を促したわけだ。
モンゴル帝国の侵略後は、ロシアのいくつかの地域は、モンゴルに対して毛皮で貢納した。たとえば、ノヴゴロドはクロテンで支払った。
「モンゴル 」
Sergei Bodrov/STV, 2007モンゴルの高官は、ロシアの毛皮でシューバをつくり、富と権力のしるしとして身に着けた。しかし、彼らのシューバの着方は独特だった。一着は、身体を温めるために、毛を内側に向けて着て、もう一着は、人に見せびらかすために毛を外側にして着た。ロシアの公たちおよび大貴族たちは、モンゴル・タタールから、他の多くの事柄とともに、この富の誇示のしかたを借用した。ロシアのツァーリの王冠でさえ、モンゴルの伝統にしたがい、毛皮で縁取られていた。
神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世に対してモスクワ大公の使節
Public domainしかし、ロシアの公、大貴族、そして概して富裕な人々は、毛を内側にしたシューバを着る習慣を採り入れた。それは、釣鐘のような形をしていて(末広がりになっていた)、広い袖と折り返しの毛皮の襟が付いていた。外套の外側の「肌」は、ブロケード、サテン、ベルベットなどの高価な布地で覆われ、金や宝石が刺繍されていた。
裕福な人々は時々、とくにお祝い事に際しては、何枚ものシューバを重ね着した。また、「ステータス・ウェア」として、夏でもシューバを着た!忙しい午後、埃っぽい木造の宮殿の蒸し暑い部屋で、大貴族がシューバを着て、丈の高い毛皮帽をかぶり、汗をダラダラ流している…。こんなありさまを想像してみてほしい。
ゴブレットを持つボヤールのモローゾフ
Konstantin Makovskiyピョートル大帝(1世)は、18世紀に宮廷からシューバを一掃した。今やすべての廷臣、役人、軍司令官は、ヨーロッパ式の服を着せられることになった。もっとも、冬になると必ず、古き良きシューバに戻った。ただ、それは、刺繡がまったくなくて、少し違った様子だった。
しかし、彼ら上層階級は、まだ毛を内側にしたシューバを着ていた。庶民だけが、現代人のように毛を外側にしていた。18~19世紀のこうしたシューバは、御者や農民に適していた。
だが、階層や宗教に関係なく、誰もが至る所にはびこるシラミに苦しめられた。18世紀末にロシア軍に勤務したフランス人、シャルル・フランソワ・マッソンはこう記している。
「舞踏会に到着すると、ロシアの女性は、北極キツネ、エルミン、テン、クロテンの、豪華な黒や茶色の毛皮外套を召使に任せる。ご主人を待つ間、召使はこれらの毛皮外套の上に横たわる。ご婦人がお帰りになるときは、召使は寄生虫だらけの貴重な毛皮を身にまとう…」。これは、シューバを着るために支払う、さらなる代償だったが、女性たちは困難を前にひるまなかった。
ヴォイヴォダの到着
Sergey Ivanov ちなみに、毛皮コートを着る女性には、一定の規則があった。歴史家ユリア・デミデンコが述べる通りで、「毛皮の着用には、属する階級ではなく、年齢や社会的地位による規則があった。高齢の女性はクロテンの毛皮を着たが、若い女子は、シベリアリス、カラクール、ウサギのどれかだった」
若い女性は、たとえミンクとクロテンを着られるだけ裕福だったとしても、安い毛皮で我慢しなければならなかった――それは慣習だったから。
建築家I.S.ゾロタリョーフスキーの肖像画
Boris Kustodiev19世紀末には、女性は年齢に関係なく、毛皮の美しさを見せるために、毛を外側にしたシューバを着るのが流行った。
ロシアでは通常、古いシューバを捨てようなどとは誰も考えない。たとえ、それがすり減って埃っぽくなっても、まだ仕立て直すことができたから。毛皮はいつでも高価だったので、少なくともその良い部分は、帽子や別のシューバの襟をつくるのに使えた。
状況は、ソ連時代になってもあまり変わらなかった。まともなシューバは、一般国民には非常に高額だった一方、ソ連経済にとって毛皮の輸出は極めて重要で、継続された。1925~1926年にソ連の輸出に占める毛皮のシェアは実に 89.6%。さらに、1930年代から、毛皮生産は国が独占することになる。1939年11月25日、ソ連政府は個人による毛皮の生産と取引を禁止した。ソ連の貿易を毛皮業者から保護するためだ。
毛皮の輸出、そして第二次世界大戦中に赤軍のために生産された膨大な毛皮外套…。ソ連では、毛皮がとれる動物の「資源」はほぼ払底するに至った。
1960年代になっても天然毛皮はまだ不足していた。毛皮生産の管理者たちは、毛皮工場に出荷された毛皮について、良質なものは3分の1しかないと不満を漏らした。
1958年、ソ連の指導者ニキータ・フルシチョフは、人工毛皮の導入を積極的に提唱する。羊の人工毛皮の価格は1千ルーブルほどだった(ちなみに、天然の羊皮のシューバは4千ルーブル)。当時の掃除係の給料は月30ルーブル、デパートの売り子は月100ルーブル、熟練労働者は月200ルーブルだったから、大抵の人にとって、シューバは大金だった。
しかし、人工毛皮のシューバには大きな欠点があった。天然毛皮の半分くらいしか暖かくなかったことだ。そのため、ソ連国民は依然として天然の毛皮を好み、「天然の」シューバ、帽子、オーバーコートを何としても手に入れようとし、そのケアと修理に多くの時間を費やした。
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