ジョー・バイデン副大統領とウラジーミル・プーチン首相、モスクワ、2011年3月10日。
Reutersアメリカで新大統領に選出されたジョー・バイデン――と主要メディアの大半は報じている――は、政治家として非常に長いキャリアをもっている。そして、その活動の一環として、ロシアとの交渉にも関係している。おもしろいのは、バイデンがソ連と現代ロシアのいずれとも関わっていることだ。以下に、ジョー・バイデンとロシアとの関係を簡単にまとめた。ちなみに、彼は最近、ロシアを「現在の米国にとって最大の脅威」と呼んでいる。
上院議員ジョー・バイデン(左側から2番目)と最高会議幹部会議長アンドレイ・グロムイコはクレムリンでの交渉中、1988年
Vladimir Rodionov/Sputnikジョー・バイデンは、1972年に米国の上院議員になり、1973年にソ連を訪問した。その6年後の1979年8月にさらにソ連を訪問した。行く先はレニングラード(現サンクトペテルブルク)で、訪問の目的は、米国の他の上院議員に、米ソ間の戦略兵器削減協定の締結を支持するよう説得することだった。
米ソ冷戦によって、両国間には全般的な不信が広がっており、そうした状況の中で、両超大国は、複雑な交渉を繰り広げていた。当時はそんな時代だった。
しかしバイデンは、米ソ間の戦略兵器制限交渉の強力な支持者だった。この交渉は「第二次戦略兵器制限交渉」(SALT II)として知られることになる。
米ソ間の相互不信の深さを思えば、イデオロギー上の敵との交渉の必要性を米国のタカ派に納得させるのは至難で、それを、当時の若きジョー・バイデンはやらねばならなかった。
「1979年、若いジョー・バイデンは、軍備管理全般、とくにSALTIIの擁護者だった。彼の目的は要するに、動揺している上院議員に条約を支持するよう説得することだった。条約は6月に調印されたが、上院の批准を待っていた」。ピーター・カズニック教授はこう述べる。彼は20世紀アメリカ史の専門家だ。
「当時の若い、そして明らかに進歩的だったジョー・バイデンが果たした役割を振り返ると、なかなか興味深い。バイデンは、国際条約を強く信じ、核兵器と通常兵器の大幅な削減の実現を望んでいた。要するに彼は、冷戦の緊張を和らげようとした」。カズニック教授は語る。
8月の訪問中にバイデンは、ソ連の指導者レオニード・ブレジネフ、アレクセイ・コスイギン首相、有名なアンドレイ・グロムイコ外相など、ソ連の指導部の主立った面々と会談した。
ずっと後の2011年にバイデンは、ロシア訪問に際し、モスクワ国立大学でロシア人学生に対して講演し、その中で1979年の訪問を振り返っている。
「ブレジネフは当時、我々が思っていたよりも病身だった。彼は、言い訳をして会議から早々に退出し、コスイギン首相にあとを任せた。首相はまずこう述べた――私はそれを決して忘れないだろう――『上院議員閣下、話し合いの前に、おたがい次の点に同意しておこう。我々はあなた方を信頼していないし、あなた方も我々を信頼していない、ということだ。これについては、我々双方に、もっともな理由がある』」
「初めてのレニングラード」と題された「プラウダ」の記事
Pravdaソ連のメディアは、バイデンのソ連訪問に関して短い特集記事を出し、それは「初めてのレニングラード」と題されていた。ソ連共産党機関紙「プラウダ」の記事は、バイデンがレニングラードのピスカリョフスコエ記念墓地を訪れたことを伝えている(この墓地には、独ソ戦中のレニングラード包囲戦の犠牲者が葬られている)。
「人類は、レニングラードの人々の偉業に感謝している。彼らが勝ち取った世界は、我々の人生の目標であるべきだ」。バイデン上院議員の言葉を同紙は報じていた。
バイデンは1988年に再び、米国上院外交委員会の委員として訪ソした。このときのバイデンの訪ソを伝える数少ない「証言」の一つが、アンドレイ・グロムイコと彼が写った白黒写真だ。
ジョー・バイデンとアンドレイ・グロムイコ、1988年
Vladimir Rodionov/Sputnikこれらの写真では、バイデンは満面に笑みを浮かべているが、自制心が強く、タフな交渉者として知られているグロムイコは、バイデンと握手しつつも、かなり暗い表情に見える。
ドミトリー・メドヴェージェフ大統領とジョー・バイデン副大統領、2011年3月9日
APやがて、冷戦は終結して、ソ連は崩壊。バイデンはさらに、政治家としてのキャリアの梯子を駆け上がっていく。そして、オバマ政権の副大統領の立場で、新生ロシアを相手にすることになる。
オバマ政権は、最初の数年間、米露関係のいわゆる「リセット」を提案した。これは、2008年8月の南オセチア紛争後の米露関係正常化を目指すものだった。バイデン副大統領のもとで、両国は2010年に、新戦略兵器削減条約(新START)に調印した。
2011年、バイデン副大統領は、オバマ大統領の特使としてモスクワを訪れ、ドミトリー・メドヴェージェフ大統領とウラジーミル・プーチンに会った(プーチンは当時、首相を務めていた)。
バイデンは、オバマの訪露に必要な準備を行い、米露関係の「リセット」の展望と、ロシアの世界貿易機関(WTO)加盟の見通しについて話し合い、両国の財界人と会い、モスクワ大学で上の講演を行った。
プーチン首相とバイデン副大統領の会談
APロシアの知識人のなかには、バイデンがどんな議題を取り上げるか想像をめぐらした者もいた。例えば、著名な外交評論家であり、外交専門誌「グローバル政治の中のロシア」編集長であるフョードル・ルキヤノフも、記事を書いている。
その中で彼は、バイデンがプーチンに、北大西洋条約機構(NATO)事務総長という、「あり得ない」ポストを提案するのではないかと、バイデンの計画について語っている。
ルキヤノフによれば、2011年の訪露中にバイデンは、リビアへの軍事介入と引き換えに、ロシア首相だったプーチンに、NATOの「権威ある地位」をオファーすることになっていた。この話がいかに「ぶっ飛んで」聞こえようと、ブリュッセルにおける2つの独立したソースで確認された、とルキヤノフは述べている。
周知の通り、ロシアは、2011年のバイデン訪露の直後に起きた、欧米のリビアへの軍事介入に反対している。2012年に大統領職に復帰したウラジーミル・プーチンは、そんな申し出があったと述べたことはない。
2011年以来、バイデンはモスクワの意図にますます疑念を抱き、ウラジーミル・プーチンの外交政策を何度か批判し、最近では、2020年の米国大統領選の討論会でロシアを「現在の米国にとって最大の脅威」と呼ぶにいたった。
*バーニー・サンダースのソ連での新婚旅行についてはこちらで。
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