1952年11月5日早朝、セベロクリリスク(日本統治時代の柏原)の住民は強い揺れで目覚めた。午前4時の2分前だった。
家の壁が揺れてひび割れ、漆喰が落ち、シャンデリアがガタガタと音を立て、皿、本、写真が床に落ちた。人々は怯えて、服も着ずにベッドからはね起き、通りに飛び出した。
地震と津波後、セベロクリリスクの様子
シリショフ海洋学研究所火山の噴火か?それは予想されたことだった。セベロクリリスクが位置する、太平洋のパラムシル島には23もの火山があり、そのうち5つは活火山だと考えられている。都市に最も近いエベコ火山は、わずか7kmの距離にあり、しばしば火山ガスを噴き出して、その存在を思い出させた。
パラムシル島(幌筵島)、アトラソフ島(阿頼度島)、シュムシュ島(占守島)
NASAしかしその朝、火山は眠っており、問題は火山ではなかった。街の生命は、あと40分しか残っていなかった…。
激しい揺れは、太平洋の巨大地震によって引き起こされた。マグニチュードは実に9.0。リヒタースケールで8.3。震源地は、海岸線から30 km、深さ200kmの海底にあった。揺れはさらに30分続き、この間に破壊は、クロノツキー半島から千島列島北部にいたる海岸700kmを覆った。
揺れによる損傷は目立ったが、壊滅的ではなかった。誰も負傷はしなかった。後に、事件に関する報告の中で、セベロクリリスク警察署長P.M. デリャビンは、次のように書いている。
「地区の警察署に行く途中で、幅5~20cmのひびが地面に入っているのを見た。署に着くと、地震で建物が半分に割れ、ペチカが崩れてしまっていた」
その時までに、目立った揺れは止まっていた。「天気はとても穏やかだった」。しかし、その静けさはすぐに、海の方からの大きな騒めきとバチバチいう音で中断された。海から警察署までは、150mの距離だ。
「振り返ってみると、大きな水の壁が海から島へと進んでいるのが見えた。…私は部下にこう命じた。自分の武器で発砲しながら、『水が来るぞ!』と叫んで知らせろ、と。その間に私は、丘の方へ登っていった」。デリャビンはこう書いている。
しかしそのときは、「水」のことだと皆が分かったわけではない。ある者は、「水(ヴァダー)」ではなく、「戦争(ヴァイナー)」と叫んでいると勘違いし、波が島にぶつかったときは、島が攻撃されたと思った。人々は走った。
波はそれほど高くなく、1m強だった。最初の津波は、海岸線に最も近い家々を浸水させ、破壊した。10~15分後、水は退き始めたので、多くの人が、残った持ち物を取りに家に戻った。これが致命的な誤りとなる。
海水がいったん退いた後、二度目の津波が街を襲った。それは、まさに破壊的な、高さ10㍍の波だった。波は、途中であまり障害物にぶつからず(最初の波が障害物のかなりの部分を一掃していた)、島の内部に凄まじい速さで流れ込んだ。
その朝、セベロクリリスクのほか、高波は、オネコタン島のムッセリ湾(高さ9.5~10㍍)とカムチャツカ半島のピラトコフ湾(10~15㍍)とオリガ湾(10~13㍍)も覆った。しかし、セベロクリリスクが主な犠牲となったことが後に判明する。わずか数分で、人口6千人の都市全体が壊滅した。
それから第三波が来た。第二波よりは弱かったが、いわば破壊の「仕上げ」をし、海岸にあったほとんどあらゆるものを海に運び去った。
「市内で、20~30分間(巨大な波が相次いで襲った時間)、まるで沸騰したお湯みたいな轟音と、建物がバリバリ崩れる音がした。家や屋根は、まるでマッチ箱みたいに崩れ去り、海に運ばれた」。警察署長は振り返っている。
後に、ソ連科学アカデミー・カムチャツカ火山学ステーション所長B.I. ピープは、日記に次のように記している。
「高台にあった、街のごく一部は無傷で、電信とラジオ局も無事だった。ラジオ局はずっとSOSを発していたが、なぜか要領が悪く、ペトロパブロフスク・カムチャツキーでは何も理解できなかった」。ちなみに、当時、ソ連には津波警報システムはなかった。
災害後、ピープは、海岸線に沿って航海した。特別委員会のために、津波の高さを測るのが目的だった。彼は、あちこちで悲劇的な話を聞かされる。
「たとえば、パンツとアンダーシャツしか着ていない2人の船員が、午前5時から午後5時まで、家の残骸を抱えて水中を漂っていた。ついに彼らが救助されたとき、一人は海岸に這い出てきて、力尽きて死んだ。もう一人は生きていた。…海は長い間死体を翻弄し、岸のあちこちに打ち上げた」
早朝、飛行機がパラムシル島に飛んだ。そこでは、セベロクリリスクがまるごと流され、海峡全体が家、丸太、樽などの残骸、破片でいっぱいで、生存者たちはそれにしがみついていた。
セベロクリリスクの様子、1953年
P.I. Arzhantsev Personal Archive飛行機と汽船による避難がすぐに発表され、市内にいた国境警備隊と軍隊とともに避難した。
研究者たちは、セベロクリリスクの悲劇がすぐに「極秘」扱いになった事実と、こうした形での避難が関係していると考える。
ソ連共産党中央委員会の機関紙「プラウダ」は、翌日もその後も、極東での悲劇について一言も書いていない。ソ連政府のイズベスチヤ紙も沈黙していた。地域の新聞「カムチャツカヤ・プラウダ」は、読者たちが惨禍を目の当たりにしたことを考慮して、11月8、9、10日は発行しなかった。
11月11日、ついにこの地元紙は、ニュースを伝えたが、全然別のそれだった。「ソビエト国民は、10月社会主義革命35周年を、高揚した気分で熱心に祝った」
この悲劇に関するデータは、海軍部門のアーカイブが利用可能になった2000年代初めにようやく部分的に機密解除された(しかし、国防省のアーカイブはまだ機密扱いだ)。これらのアーカイブによると、千島列島北部の大災害により、計2,336人が亡くなった。
しかし歴史家たちの意見では、1952年11月5日の津波は、少なくとも8千人の命を奪い、そのうちのほぼ2千人が児童と未成年だ。統計には、民間人と、遺体が発見され身元特定された犠牲者だけとが含まれているという。
丘に再建されたセベロクリリスク、1954年
G.I. Davydkin family archiveこの大惨事は、ある重要な結果をもたらした。1956年、ソ連は、地震と気象に関連する部局を設置。その任務には、海洋の地震の検出と津波の警報が含まれていた。
しかし、セベロクリリスク自体は、津波の後、困難な時代に入った。避難した人々の多くは、都市の中核である水産物加工工場や基地がひどく損傷し、閉鎖されたため、二度と戻らないことに決めた。軍の駐屯部隊も大幅に縮小した。
さらに、1961年には、沿岸海域でニシンが回遊しなくなったため、状況はさらに悪化。セベロクリリスクの主要産業に大打撃を与えた。
津波の後、都市は再建され、丘の近くに移動した。つまり、古代の海底の段丘にスライドし、海抜20m以上の高さになった。
だが、理想からはほど遠い。現在、セベロクリリスクは、エベコ火山の噴火時の泥流の経路上にあるからだ。今日、2,691人がこの都市に住んでおり、これは島全体で唯一の集落となっている。
現在セベロクリリスクの主要な道路
Victor Morozov (CC BY-SA 2.5)ロシア・ビヨンドのニュースレター
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