レオニード・ブレジネフ生誕110年

レオニード・ブレジネフ=

レオニード・ブレジネフ=

ウラジーミル・ムサエリャン/タス通信
 110年前の12月19日に生まれたレオニード・ブレジネフは、18年にわたりソ連共産党を率いた。今日、ブレジネフの長い統治時代は、安定した至福の時代として、また、人々がついに共産主義の理想に失望した停滞の時代として、回想されている。

 法律家のイリーナ・ソロヴィヨワさんは、「ブレジネフが亡くなった時、世界が破裂したように感じた」と語る。1982年11月10日にこのソ連共産党書記長が亡くなった当時、彼女は、18歳であり、ブレジネフの時代に全半生を過ごしてきた。

 「彼は永遠であり常にいる、と思われた。それは、私たちのソ連という世界の不可分の一部だった。共産主義、赤いネッカチーフ、ブレジネフ」

 

機関の人間

 レオニード・ブレジネフがソ連共産党中央委員会つまり全ソ連邦の指導者となったのは、党の上層部が前任のニキータ・フルシチョフを政権の座から退かせた1964年のこと。エキセントリックなフルシチョフは、当時、国を深刻な危機へ導いた無分別な政治家と評されていた。

 同時代人たちは、ブレジネフがフルシチョフとは対照的に責任感の強い予見可能な党職員である点を指摘しており、相談役のアレクサンドル・ボヴィン氏は、同書記長について「氏は、機関の人間であり、事実上、機関の僕(しもべ)だった」と述べた。ブレジネフは、徐々に党の最高ポストへ昇り詰めていく。ウクライナで生まれ、エンジニアとなり、大祖国戦争(独ソ戦)を体験し、党の指導部で働いた。際立つ存在ではないものの、真面目に仕事をしていた。

 歴史家で「ロシア現代史1945-2006」の著者であるアレクサンドル・フィリッポフ氏によれば、ブレジネフが党中央委員会のトップに選ばれた理由はその中立性にあり、党内各派は氏を意のままに操れるものと踏んでいた。しかし、ブレジネフは、独立独歩の人物であり、氏を取り巻く枢要なポストには、支持者のグループが形成され、これによって、氏は、独自の路線を歩むことができた。

 

破綻した改革と原油の恩恵

 ブレジネフの統治時代の当初、ソ連は、市場経済のエレメントの導入を見込んだアレクセイ・コスイギン閣僚会議議長(首相)の経済改革をある程度実現していた。この改革は、効率的なものであり、ソ連経済は、1960年代末に急速な成長を遂げた。

 しかし、その後、コスイギンの改革は、同氏に対するブレジネフの政治的な嫉みなどのために水泡に帰した。同時代人たちは、コスイギンの思想に対するブレジネフの反応をこう再現した。「彼は、何を考え出しのか? 改革、改革……。誰にそれが必要であり、誰がそれを理解するのか?」

 1970年代、ソ連の経済は、主として再び手にした資源大国のステータスに立脚していた。1973年の危機の後、原油の価格は、20倍に跳ね上がり、ソ連は、欧州へのその輸出により莫大な利益を得ることができた。ロシアの石油産業は、まさにブレジネフの統治時代に創出された。一方、原油採取への依存は、すでに当時から危険であり、1980年代末の原油安は、ソ連の経済に大きな打撃を与えることになる。

 

「デタント」から新たな危機へ

 1960年代末、ソ連と米国は、戦争が起きれば共倒れは免れないことから、核兵器の均衡を図ることにした。アレクサンドル・フィリッポフ氏によれば、これによって、国際関係における「デタント(緊張緩和)」のプロセスがスタートし、1972年、ブレジネフとリチャード・ニクソンの両首脳が、第一次戦略兵器制限交渉(SALT I)の協定および弾道弾迎撃ミサイル(ABM)制限条約に調印した。超大国の関係は、温暖化したが、1970年代末、両国は、再び非難合戦へと移行した。

 ロシア国民経済国家公務アカデミー・社会学研究所のアレクセイ・プィジコフ主任研究員によれば、1979年にソ連によって開始されソ連軍の「限定された部隊」が戦地へ派遣されたアフガニスタン戦争が、デタントを「葬り去った」。

 プィジコフ氏は、ロシアNOWに対し、ソ連のアフガン侵攻の目的としてソ連の南部国境の防衛とソ連の国際的威信の向上の二つを挙げ、「国の指導部には、社会主義インターナショナルの思想を復活させるために勝利をもたらす戦争が必要であったが、アフガニスタンは、カタストロフ(破局)となった」と語った。ソ連軍は、1989年までその国に駐留し、1万3千人以上を失った。

 

壮大なる消滅

 経済的に豊かで大きな変動のないおかげで、国民は、比較的良い暮らしを営むことができていた。イリーナ・ソロヴィヨワさんは、こう語る。「私たちは、知っていた。暮らしがこれからどうなるか、そして、必要ならば国が私たちのことを心配してくれる、ということを。ブレジネフ時代の主な感覚、それは安定、そしておそらく退屈」

 他方、ブレジネフの安定(「停滞」とも呼ばれる)は、時限爆弾であった。アレクセイ・プィジコフ氏は、「ブレジネフの時代は、ノーメンクラトゥーラ(特権階層)の台頭の時代であった」と語る。同氏によれば、まさにブレジネフの統治時代に、党のエリートが、国民から分離して閉鎖的なカースト(階級)と化し、このカーストは、一般の人々より遥かに裕福に暮らし、共産主義の建設に関する公式的なマントラ(お題目)を繰り返しつつも、実際にはそれらをもはや信じておらず、国民も、それらを信じていなかった。

 プィジコフ氏は、「何世代ものソ連の人々がそのために身を粉にし時には命を落とした明るい未来や正義に対する信念は、その時期に消え失せた」と語る。同氏によれば、ブレジネフを頭とする保守的な党の上層部は、変革を恐れ、改革を断行せずに安定を保持することに腐心していた。計画経済の問題は、解決されずに深刻化していった。やがて、1980年代末になって、これは、システムの瓦解とソ連の崩壊を招くことになった。