アルメニアはいかにロシア帝国に組み込まれたか?

Arman Militosyan (CC BY-SA 4.0); Barbe Igor (CC BY-SA 3.0)
 19世紀初頭、アルメニアは、ロシア、ペルシャ(イラン)、オスマン帝国の角逐の場だった。ロシア帝国は、第二次ロシア・ペルシア戦争の結果、ペルシャ領アルメニアをロシア帝国に併合する。これは、キリスト教徒であるアルメニア人にとって、ペルシャとオスマン帝国の脅威から身を守る方便でもあった。

アルメニアはどこにある?

 アルメニアは、カスピ海と黒海の間の地域にあり、キリスト教導入以前の時代から、厳しい地政学的条件のもとにあった。いくつかの民族集団が、この地をめぐり戦ってきた。トルコ、グルジア(ジョージア)、アゼルバイジャン、イランと国境を接している。


アルメニアはどのくらい古いのか?

「アルメニア人の洗礼」、イワン・アイヴァゾフスキー画

 アルメニアは、この地域最古の国の一つであり、古代国家「ウラルトゥ」の流れをくむ。オロンテス家による最初の独立国家「大アルメニア王国」は、広大な版図を有し、紀元前2~1世紀に存在した。しかし、紀元前1世紀に共和制ローマに敗れて、衰える。

 以来、アルメニアは、ペルシャ人、アラブ人、トルコ人など、さまざまな敵によって分割、征服されてきた。

 アルメニアは、世界最初のキリスト教国家であり、301年にキリスト教を国教として導入している。その激動の歴史を通じて、アルメニア人は、カフカスとヨーロッパのさまざまな地域に移り住んできた。


近世・近代のアルメニアは?

 16世紀以来、アルメニアの領域は、トルコとペルシャの角逐の場となった。16世紀半ば、アルメニア東部はペルシャの勢力圏に組み込まれ、アルメニア西部はトルコの支配下に入ったが、それはしばらくの間にすぎなかった。

 ペルシャは、アルメニアを自身の勢力圏内の衛星国にし、一方、トルコは、アルメニア地域の「自分たちの」部分を征服した。17世紀には、アルメニアの「ペルシャ地域」に住むアルメニア人多数が、ペルシャ内陸部に強制的に移住させられた。

 18世紀後半までに、アルメニア人はペルシャ支配からの解放を目指し、蜂起を開始した。ちょうどその時期に、ロシア帝国も、勢力争いの「方程式」に加わる。

 

アルメニアはいかにロシア帝国に組み込まれたか?

イスラエル・オリ

 ペルシャの最も影響力ある君主の一人、ナーディル・シャー(1688~1747)は、カルトリ(イベリア王国)のグルジア領、およびカヘティ王国を征服。ナーディル・シャーの死後、これらの領域は、トビリシに都を置くカルトリ・カヘティ王国として統一される。

 さて、ロシア帝国は、このカルトリ・カヘティ王国と1783年にゲオルギエフスク条約を結んで、保護国とした。アルメニア人にとって、それは、ペルシャによるさらなる征服から身を守るために、ロシア帝国の保護下に入る道を示すものでもあった。

 これに先立って1701年、アルメニアの有名な政治家で解放運動を率いたイスラエル・オリ(1658~1711)は、モスクワを訪問し、ピョートル大帝(1世)にアルメニア独立を支援するよう要請した。ピョートルは、これに同意したが、オリは任務を遂行できなかった。奇怪な状況で1711年に急死したからだ。

 しかし、1801年にカルトリ・カヘティ王国が、ロシア皇帝アレクサンドル1世の決定で、ロシアに編入されたとき、カルトリ・カヘティの一地域をなしていたアルメニア領の一部も、ロシアに入った。

 ロシアは、カフカス地域の支配を望んでいたペルシャの攻勢に対抗するために、こうした一連の動きを必要としていた。ペルシャの絶えざる侵略で衰退したアルメニア人は、キリスト教国家のロシア帝国に加わるほかなかった。ロシアは、アルメニアの宗教的信条や伝統を変えようとは考えていなかったから。

 一方、この地域の西部に住んでいたアルメニア人は、正式にはオスマン帝国に属しており、同国の政府から絶え間ない迫害を受けていた。

 1804年~1813年のロシア・ペルシア戦争は、カルトリ・カヘティ王国がロシアに編入された結果勃発した。ペルシャ(イラン)は、この王国を自身の勢力圏に戻したかったからだが、ロシアはこの戦争に完勝。ゴレスターン条約(1813年)により、ダゲスタン、グルジア(ジョージア)東部、現在のアゼルバイジャン共和国の領域の大半、およびアルメニア北部が、ペルシャからロシア帝国に割譲された。

 しかし間もなく1826~1828年に第二次ロシア・ペルシャの戦争が起きたが、やはりロシア帝国の勝利で終わった。両国が結んだトルコマーンチャーイ条約で、アルメニア東部、エリバン・ハン国、ナヒチェヴァン・ハン国がロシアに加わった。

ロシア帝国の一部であったアルメニア州

  1828年、ロシア帝国の一部としてのアルメニアが創設され、ロシアの主導で、ペルシャとトルコからのアルメニア人の帰郷が始まった。これは、アルメニアの文化的ルネッサンスの始まりを告げるものだった。

 その後、ロシア領アルメニアは、ロシアのより大きなカフカス領の一部に組み込まれる。トビリシを中心とするこの地域は、ロシアによって「設計」され、グルジア、アルメニア、アゼルバイジャン、その他のカフカス国家で構成されていた。

 ロシアは、ペルシャとトルコの支配、脅威からの保護を与えはしたものの、地元の学校でロシア語学習を強制した。しかもこの地域は、ロシアの行政官、主に軍人によって統治されていた。

 これは、ロシア支配に対するアルメニア人のさらなる反感、抗議を煽った。それでも、この地域の比較的平和な状態は、19世紀末まで続いた。

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