シベリアはかつて独立国だった:シビル・ハン国の興亡

Irina Baranova
 シビル・ハン国は、モンゴル帝国の流れをくむテュルク系国家だった。ロシア(ツァーリ国)よりも前に誕生していたが、結局、ロシアに征服、吸収された…。

 シベリアは北アジアの広大な地域。西はウラル山脈、東は太平洋、南北は現在のロシア国境によって区切られている。シベリアの面積は1300万平方キロメートル以上もあり、現代ロシアの面積の77%を占めている。しかし、かつて「シベリア」という言葉は、独立した国を指した。その国はどのように現れ、いつどうやって消えたのだろうか?

「シベリア」の語源は?

 はっきりしたことは誰も知らないが、こんな説がある。テュルク系諸言語では「Сибэрシベル/чибэрチベル」は「美しい」を意味し、タタール語では「себер/セベル」は「雪嵐」を、モンゴル語では「шибир/シビル」は「沼」を指す。だから「シベリア」がこれらのどれから生まれても不思議でない。

ゲラルドゥス・メルカトルが作ったアジア地図

 また、「shibir」という言葉が、1240年代の古代モンゴル文献『元朝秘史(モンゴル秘史)』の次の話に出てくる。チンギス・カンの長男ジョチが、「Shibir」南部の土地と人々を征服したというもので、このシビルは、オビ川とイルトゥイシ川に挟まれた地域となっている。

 最後に、最もエキサイティングな説を紹介しよう。シベリアの名称は「сипыр/シピル」から来ているという。これは、極北の先住民ツンドラネネツが現在居住している地域(ヤマロ・ネネツ自治管区)にかつて住んでいたと伝えられる人々だ。彼らは、「сихиртя/ シヒルチャ」とも呼ばれていたという。ネネツ人の信じるところによると、シヒルチャは地下で暮らしており、「土の鹿」つまりマンモスを放牧していたという。

 以前は、この人々は完全に神話的な存在だと考えられていたが、2020年1月に新たな考古学的発見があった。彼らの居住地が見つかった可能性がある。

人々はいかにシベリア地域に居住していったか?

 紀元前1500年頃、シベリアの領域にイラン系民族が定住し始めた。紀元6世紀にはテュルク系民族がやって来た。12~13世紀までに、イラン系、テュルク系、およびウゴル諸語を母語とする種族が混交し、その結果、シベリア・タタール人の種族が形成された。

シビル・ハン国はいかに出現したか?

 13世紀初めに、チンギス・カンのモンゴル帝国は、シベリアの諸部族を征服した。地元の支配者の一人、タイブガは、自分の土地の生活と幸福を犠牲にして、チンギス・カンに服従することに同意した。タイブガは、自領でチンギス・カンのために貢物を集め始めるとともに、都市チンギ・トゥラを築いた。チンギ・トゥラは、チュメニ・ハン国(後のシビル・ハン国)の首都だ。チュメニ・ハン国は、我々の知る限り、シベリア最初の国家である。

 チンギス・カンは、亡くなる少し前の1224年に、自分の所有物を息子たちに分けた。将来のジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)の領域は、未来のチュメニ・ハン国の地を含めて、「ウルス」として、つまり貢物を得る土地として、チンギス・カンの長男ジョチに与えられた。ジョチの死後は、チンギス・カンの孫でジョチの五男シバンに与えられる。シバンはシバン・ウルスを興し、支配した。

チンギス・カンの長男ジョチ

 13世紀末に強大なウズベク・ハンがジョチ・ウルスの権力を握った。このとき、ウズベク・ハンはこのウルスに――それは既にチュメニと呼ばれていた――独立と自治を安堵した。

ジギスムント・フォン・ヘルベルシュタイン外交官が作った地図、右側にチュメニ(チンギ・トゥラ)のしるしがある

 他のすべてのウルスは、ウズベク・ハンによって再編され、その支配者たちを従わせた。しかし15世紀初め、ジョチ・ウルスにおける政争の結果、シバン・ウルスは独立を宣言し、1420年にチュメニ・ハン国が出現した。その創設者は、シバンの末裔(シャイバーニー家)のハジ・ムハンメドだ。

 1495年には、敵対するタイブガ・ハンが チュメニ・ハン国を襲い、イバク・ハンを殺して、首都をチンギ・トゥラからカシルイクに移した。それはシビルとも呼ばれていた。こうして、新たなシビル・ハン国が誕生し、それをタイブガの一族が治めるようになった。

シビル・ハン国の生活は?

 シビル・ハン国は、他民族、他宗教の国だったが、テュルク系民族が、ハンティ人、マンシ人などの先住民を支配していた。国の統治者はハンで、テュルク系民族の貴族が選出した。

 ハンは、生の粘土レンガで建てられた宮殿・要塞に住んでいた。このような建造物の建設には、ふつう中央アジアの建築家が招かれた。彼らは、特徴的な装飾の制作方法を知っていた。しかし、そうした宮殿は、その素材からして短命であり、廃墟さえも現存しない。

 住民は、牧畜、狩猟、漁業を営んでいた。耕作はほとんどなされなかったが、陶器、織物、金属加工などの工芸品が栄えた。都市の内部では、平民はユルト(移動式住居)に住んでおり、その列が通りをなしていた。シビル・ハン国は、アジアからヨーロッパへ至る交易ルート上にあるため、活発に交易を行った。

シビル・ハン国はなぜ消滅したか?

 16世紀、ロシア・ツァーリ国は、カザン・ハン国およびアストラハン・ハン国を征服した。これらは、ジョチ・ウルスの大きな「断片」で、ロシアのツァーリの権力に抵抗していた。カザン征服はとくに残酷に行われた。

 一方、シビル・ハン国は、通行し難いウラル山脈によってロシア・ツァーリ国から隔てられていたが、1555年にタイブガ・ハンのエディゲイは、ロシアへの服属を認め、貢納を始めさえした。

 しかし、1563年にシビル・ハン国の権力は、シャイバーニー家のクチュム・ハンが掌握した。彼は1571年にモスクワへ、クロテンの毛皮1千枚という大量の貢物を送った。しかし、この大盤振る舞いの後で、貢納を停止し、その一年後には、自分の甥、マフメト・クル(マメトクラ)をロシア領に「偵察」に派遣する。

エルマーク

 マフメト・クルは、商人ストロガノフ家の村々の住民を脅かした(同家は、ペルミの鉱山で塩を採掘していた)。そして、数村を略奪し、住民を捕らえた。タタール軍が自分たちの事業を滅ぼすことを恐れてストロガノフ家は、守り手を探し始める。こうして雇われたのが、コサックのアタマン、エルマークとそのドルジーナ(親兵)だ。

カシルイクから逃亡するクチュム・ハン

 1582年にエルマークは、重武装した数百名の歩兵とともに、ストロガノフ家の居城オリョール・ゴロドクを出発し、山々を超えて、チュメニ・ハン国の古の首都チンギ・トゥラを占領した。その後まもなく、決戦「チュヴァシ岬の戦い」が行われた。この場所は、イルトゥイシ川とトボル川の合流地点だ。

 マフメト・クルは1万5千人のタタール遊牧民からなる大軍を集めたが、火縄銃を備えたエルマークの寡兵に完敗した。この3週間後、エルマークは、首都カシルイクを占領。クチュム・ハンは既に草原に逃れていた。

シビル・ハン国はいかにロシアに併合されたか?

『イェルマークのシベリア征服』、ワシーリー・スリコフ

 しかし、エルマークはシベリア遠征からついに還らず、小競り合いの一つで戦死した。一方、クチュム・ハンはモスクワのツァーリに屈せず、草原に姿をくらまし、長い間、16世紀末にいたるまで、ロシアの守備隊を攻撃する。

 だが、エルマークに続く他のロシアのドルジーナや征服者たちは、既に敗北を喫していたタタール人を恐れなかったので、ウラル山脈を越えて侵入し始めた。

 その後まもなく、ウラルの彼方にチュメニ、ベリョーゾフ、トボリスクに要塞が現れる。トボリスクは、シビル・ハン国の首都カシルイクからわずか17キロメートルのところに築かれ、この要塞はその後も長く「都市シビル(シベリア)」と呼ばれた。

 トボリスクは、ロシアのシベリア征服、植民地化の中心地となった。徐々に発展して1708年にはロシア最大の県「シベリア県」の行政中心地となる。

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