ロシア史上最悪の五つの時代:中世から20世紀にいたるまでしばしば訪れた暗黒の日々

Galina Sanko/ MAMM/ MDF/ russiainphoto.ru
 ロシアの歴史では、悲惨で過酷な事件が数多く起きているが、真に恐るべき出来事が長期間続いたケースがいくつかあった。それらは、ほとんどすべてのロシア人を巻き込み、その生活に長い間悪影響を及ぼした。そういう暗黒の時代を五つ選んだ。

1. モンゴルの来襲:世界最強の帝国がロシアを蹂躙

 13世紀初め、モンゴル帝国の全能の統治者、チンギス・ハンは、北方の土地を征服すべく、息子たちを送り出した。1223年、モンゴル軍は、ロシアの諸侯と「カルカ河畔の戦い」で初めて干戈を交えて圧勝。

 1236年、チンギス・ハンはすでに亡くなっていたが、彼の孫バトゥが率いるモンゴル軍は、ロシアに対し、まさに燎原の火のような猛攻撃を開始した。それは期間にすれば5年間にすぎないが、筆舌に尽くしがたい恐怖と破壊の歳月だった。

 モンゴル軍の戦術は、ロシア人にとってまったく予想を超えていた。それは徹底した破壊にほかならなかった。モンゴル軍は、栄光を求め、勇気を示すために戦うのではなく、殺戮をほしいままにし、敵を再起不能にした。小部隊がありとあらゆる方向から押し寄せ、村や町を焼き、耕地から略奪し、牛の群れを盗み去った。ロシアの戦士はおそらく、数ではモンゴル軍を上回っていたものの、効果的に団結できず、惨敗を喫した。

 モンゴルの侵攻は、ロシアの公たちとその都市を圧倒し粉砕した。モンゴル来襲以前のルーシ(ロシアの古名)の文化は、ほぼ完全に破壊された。キエフ、ロストフ、ガーリチ、チェルニーゴフ、リャザンなど、ルーシの主な都市が破壊。モンゴル来襲前には、ルーシには約1000の拠点と都市、町があったが、来襲後に残ったのは300ほどにすぎない。

 今やモンゴルが統治するキエフは、ロシアの首都としての意味を失い、政治的中心は、被害が比較的少なかった、北方のウラジーミル・スーズダリ公国に移った。凄まじい侵略の後、ロシアが回復するのには100年以上を要した。

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2. 「大動乱」の時代:リューリク朝断絶、冷害、外国軍の干渉、そして全般的カオス

 この暗黒時代は、国外からの攻撃や脅威によってのみ引き起こされたわけではなく、様々な不幸、戦争、悪政などが組み合わさって、「大動乱」(スムータ)に至った。それは、1598年~1613年の15年間だが、悪影響は 1640年代にまで及んでいる。

 「大動乱」の主な引き金は、リューリク朝の断絶だ。イワン雷帝(4世)の息子フョードル1世(1557~1598)には実子がいなかった。雷帝の末子、ドミトリー皇子は、1591年に奇怪な状況で非業の死を遂げた(暗殺説と事故死説がある)。帝位継承者はもはやおらず、フョードルの妻の兄、ボリス・ゴドゥノフが即位した。

『イワン雷帝(4世)が彼の指示で殺された犠牲者と向き合う』

 イワン雷帝の治世末期とフョードルの治世の間に、ロシアの農奴制はがっちり制度化され、農民は土地に縛り付けられ、社会全般の苦痛を甚だしくした。

 しかも、この農奴制も、ロシアを1601~1603年の大飢饉から救ってはくれなかった。ペルーのワイナプチナ火山の噴火が「火山の冬」を引き起こしたことで飢饉が発生したと考えられている。

 農業のサイクルは崩壊し、ロシアではとくに、食糧備蓄が不十分だったせいで、厳しい状況となった。ロシアが全体としては失敗、敗北したリヴォニア戦争(1558~1583)は、国庫を空にしていた。

 膨大な数の農民が主人のもとから逃げ出し、街道や森で強盗、略奪を始めた。モスクワだけで12万7000人以上が餓死。農民反乱が発生し始めた。

 1605年にボリス・ゴドゥノフが亡くなり、ロシアの実権は、ドミトリー皇子の僭称者、偽ドミトリー1世(?~1606)、および彼を担いだポーランド貴族らによって奪われる。このなりすましはすぐに殺されたが、この頃には、時代は「大動乱」に完全に突入していた。

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 農民の暴動、反乱が国中で激化するなか、およそ帝位に就く資格のない大貴族ワシリー・シュイスキーが即位した。またも、僭称者の偽ドミトリー2世が出現した…。こういった大混乱のさなか、ポーランド・リトアニア共和国がロシアを侵略し、モスクワを占領する

 10年間にわたり混乱が続き、ようやく1612~1613年に、ロシア社会に国民義勇軍として知られる解放運動が生まれ、モスクワのクレムリンからポーランド軍を追い払う。

 国民義勇軍の指導者、クジマー・ミーニンとドミトリー・ポジャルスキー公が、ロシアの君主制復活を助け、ロマノフ朝が成立する。

クジマー・ミーニンとドミトリー・ポジャルスキー公

 大動乱の時代に、ロシアの全人口の約4分の1が犠牲になった。耕作可能な土地は激減し、さらに悪いことに、この時期に育った新世代の農民は、適切な耕作方法を知らなかった。17世紀半ばになっても、ロシアの人口はまだ16世紀の水準にまで回復していなかったが、この頃、別の災厄がロシアを襲う…。

3. 1653~1654年のペスト大流行:日の光は消え、死の影が大地を覆う

ペスト流行で起こった混乱

 1653年、ロシア社会を分断した宗教改革(ニコンの改革)が総主教ニコンによって始められると、その後、いくつかの「黙示録的な」出来事が続けざまに起きた。

 1654年にペストがロシアの中央部を襲う。ロシア人は、疫病の大流行に初めて直面したため、いかなる準備も覚悟もできていなかった。ツァーリのアレクセイ・ミハイロヴィチと軍首脳、そして軍隊が生き残ったのは、まったくの僥倖だった。彼らはみな、ポーランド・リトアニアと戦っていたからだ。皇帝の家族もモスクワからすぐに避難した。

 モスクワは無人となった。住民のほとんどがペストで死ぬか逃げ出した。逃亡したモスクワっ子は、ペストをロシア中央部の他の都市や町に持ち込んだ。歴史家たちは、1653~1654年に最大80万人が亡くなったと推測している。

 さらに、1654年8月12日、日食が白昼に起きて、しかもはっきりと見えた。これは、この時代の最悪の凶兆と受け止められた。総主教ニコンとツァーリさえも完全に恐怖にとらえられた。 

 ペストが終息した後も、ロシア人は、飢饉や不況に苦しんでいたが、その一方で、疫病対策や予防の経験を得た。

4. 三つの革命、第一次世界大戦、内戦:ロシア帝国の崩壊

 ピョートル大帝(1世)の大改革は、ロシア人の生活を文字通りひっくり返した。また、1812年の祖国戦争では、ナポレオンの史上空前の大軍を打ち負かすために、ほぼすべての国力を使い果たした。だが、これらの大事件も、ラストエンペラー、ニコライ2世の治下で起きた災厄には及ばない。彼はおそらく、ロマノフ朝の全史を通じて最も不運な皇帝だった。 

 ニコライ2世の治世が「ホドゥインカ原の悲劇」とともに始まったとき、多くの人はこれを暗い兆候とみなした。実際、ニコライの不可解な政策は、1905年の日露戦争敗北に至り、それは同年の第一次革命を引き起こして、ロシアの国家体制を変えた。

 すなわち、ロシア最初の議会「ドゥーマ」が生まれたが、ツァーリはこれを諮問機関としか考えていなかった。ニコライが発布した1906年憲法により、皇帝はドゥーマに対して責任を負わず、任意の時にドゥーマを解散、再選挙を行う権限を有していたため、下院は有名無実化した。

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 1905年の一連の事件の後も、ロシアの革命活動はくすぶり続け、決してやむことはなかった。ウラジーミル・レーニン、ヨシフ・スターリン、その他の多くの、将来のボリシェヴィキ政権を担う人々は、愚かにも軍国主義的な政策を続けていた専制政府を打倒しようとした。

 ロシア帝国軍が十分な準備もなしに第一次世界大戦に参戦したことは、1917年の2月革命、ついで10月社会主義革命の引き金になり、ボリシェヴィキが権力を握った。その後、国家は、ほとんどゼロから、ほぼ人的、物的資源もないまま再建されなければならなかった。

10月社会主義革命中、モスクワで発生した火事

 ロシアは、ボリシェヴィキと君主制支持者の両政権に分裂して悲惨な内戦(1917~1923)に突入。約1100万人が犠牲となり、さらに200万人が国外に亡命した。国内総生産(GDP)は5分の1に激減した。

 状況は疫病の流行によってますます悪化した。1918年~1920年に、約2500万人が発疹チフスに感染し、コレラと赤痢も流行した。

 さらにまたロシアは、1918年にインフルエンザ「スペイン風邪」のパンデミック、および1921~1922年の大飢饉にさらされた…。まさに地獄さながらの状況だった。この時期に死んだロシア人の正確な数は不明だ。

 さらに悪いことに、ロシアはホームレスの孤児で満ちた。これは、1920年代~1930年代の全般的「犯罪化」を助長する土壌となった。

5. スターリン体制と第二次世界大戦:ロシア史上最恐の時代

 スターリン体制下の災厄は、概して、ボリシェヴィキ政権誕生の延長線上に起きている。1924~1929年の比較的穏やかな期間の後、スターリン政権は「引き締め」を始めた。これは、「農業集団化」(1928~1940)をともなった。それは、個人経営の農場と土地私有を国家が管理する集団農場に変えることを意味した。

 農民たちは最初、この政策に反対した。何世紀にもわたる農作業で検証されてきたやり方を破壊するものだったからだ。 

 大小さまざまな、数千件の農民反乱、暴動が起きたが、政府は非人道的な弾圧を行った。「破壊分子」は逮捕されて、矯正収容所に送られ、その指導者たちは処刑された。 歴史家らは、集団化は約1000万人の命を奪ったとしている。 

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 農業集団化は、1932~1933年にまたも大飢饉を発生させ、ロシアだけでなくカザフスタン、ウクライナ、北カフカスにも広がり、約1100万人が犠牲となった。

 一方、ソ連の経済・産業の工業化は、「五か年計画」で本格化し、農民と労働者に対する抑圧の波がまた生じた。

 1930年に「グラーグ」(矯正収容所)が設立される。さまざまな弾圧により最大4000万人が処刑・投獄、もしくは何らかの被害を受け、トラウマを負った。

 こうして1930年代以降、ロシアという国家の顔は永遠に変わった。そして第二次世界大戦が来る。

 なるほど、スターリン時代の集団化と工業化の政策がなければ、ソ連はナチス・ドイツに猛攻に耐え抜く可能性はほとんどなかっただろう。これは悲しむべき真実だが、その第二次大戦がまたも巨大な犠牲を強いる。

 2600万人以上が死亡し、生き残った者もすべて、人生が不可逆的に激変した。20世紀前半に国が被ったあらゆる災厄の後、ロシア人がどうにか前進し、現在の状態を築けたのは奇跡だ。

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