ホドゥインカの大惨事の犠牲者
Public domainピョートル大帝(1世)は、1712年にロシア帝国の首都をモスクワからサンクトペテルブルクに移したが、皇帝の戴冠式は、その後もモスクワのクレムリンの生神女就寝大聖堂(ウスペンスキー大聖堂)で行われた。最後の皇帝ニコライ2世も例外ではない。彼の父、アレクサンドル3世は1894年に亡くなり、ニコライはその2年後の1896年5月14日に戴冠した。
ウスペンスキー大聖堂で行われたニコライ2世の戴冠式
Laurits Tuxen/Hermitage Museumニコライ2世の治世は、5月18日にホドゥインカ原(今日、レニングラーツキー大通りの起点に当たる)で起きた悲劇とともに始まった。当時、この野原は、モスクワ守備隊の演習場であり、大規模イベントがここで行われる習わしだった。
アレクサンドル2世とアレクサンドル3世の戴冠も、ここでモスクワっ子により祝われ、事故は起きていない。しかし、ニコライ2世の戴冠に際しては、一連の悲劇的な過ちがあった。
最初の過ちは、主催者がこの大祝賀会の一般参列者の数を過小評価したことだ。準備は、ニコライ2世の叔父であるモスクワ総督セルゲイ・アレクサンドロヴィチ大公が担当しており、大盤振る舞いの用意がなされた。すなわち、蜂蜜1万樽、ビール3万樽、多数の仮設劇場、ショーブース…。が、後で不十分だったことが判明した。
しかし、一般参賀の人々にとって、お目当ては特別なご祝儀だった。ニコライのモノグラムが入ったスパイスブレッド、ソーセージ、お菓子とクルミ、モスクワの有名なパン屋「フィリッポフ」のロールパン、新帝のモノグラムが入ったエナメルの記念マグカップがそこに含まれていた。これらの品はまとめてスカーフに包まれた。
もちろん、ホドゥインカにやって来た人は誰もが、このプレゼントをもらいたがった。そして、主催者は、参列者がモスクワだけでなく周辺の村からも来ることを考慮していなかった。当時の人々の推定によれば、この祝賀会には最大40万人が集まった。事実上、モスクワの住民の2人に1人がこの公開祝賀を訪れるつもりであった。
セルゲイ・アレクサンドロヴィチ大公の副官ウラジーミル・ジュンコフスキーに回想によると、
「野原全体が群衆で立錐の余地もなかった」。
大群衆がまるごと、ホドゥインカ原のわずか1平方キロメートルの範囲に収まっていた。これが大惨事を引き起こす。
ウラジーミル・ギリャロフスキー
Public domainモスクワの有名作家・ジャーナリスト、ウラジーミル・ギリャロフスキーのおかげで、ホドゥインカの悲劇の全容を知ることができる。
大胆不敵な彼は、すでに多くの火災や事故をリポートしており、1877~1878年の露土戦争にも参加している。彼の短いルポ「ホドゥインカ原の悲劇」は、この大惨事の翌日に「ルースキエ・ヴォドモスチ」(ロシア報知)紙に載った。また、ずっと後に、『モスクワ・ガゼートナヤ』(新聞のモスクワ)と題した回想録を書いた。
この本の中で、「ホドゥインカ原の悲劇」について、彼はこう書いている。
「ロシアと外国の特派員約200人が、この頃までにモスクワに着いていたが、この私だけが、ホドゥインカ原で圧死した数千の群衆の中で、一晩中過ごした」
「ロシア報知」のルポで、ギリャロフスキーは、ホドゥインカ原の様子を描いている。それによると、参列者へのプレゼントが置いてあったビュッフェは、モスクワの端からヴァガニコフスコエ墓地まで一列に並べられていたという(この墓地は、当時は市外にあった)。
ここでギリャロフスキーは、ビュッフェの配置に問題があり、それが犠牲者を増やしたことに気づく。ビュッフェは複数あり、その間にいくつか通路があったのだが、ビュッフェは直線状に並んでおり、深い溝を前にして、それと平行線をなしていた。これが問題だった。
ギリャロフスキーと、新聞「ノーヴォエ・ブレーミャ」(新時代)の発行者アレクセイ・スヴォーリンによると、溝の横幅は約64㍍、傾斜は垂直だった。この溝は、以前は、モスクワ市の必要に合わせて粘土と砂を採取する穴として使われていた。溝とビュッフェの間の距離はそれほど大きくなく、20~30歩しかなかった。しかも野原は、あちこち穴だらけで、躓きやすかった。
ギリャロフスキーは、5月17日の夕方にホドゥインカ原に着いた。すでに多くの人が来ていた。 プレゼントの配布が翌日の午前10時に始まることは皆知っていたが、人々は、マグカップと珍味を手に入れるために早々と出かけることにし、17日昼から野原に集まり始めた。ギリャロフスキーは当初、近くにある競馬場のバルコニーから様子を観察していたが、その後野原に下り、人混みに巻き込まれた。
そこでギリャロフスキーは知り合いにばったり会い、しばらく彼と話した。その間も、もう深夜だというのに、人はどんどんやって来た。立錐の余地もないほどだった。突然、ギリャロフスキーは、競馬場のパビリオンに煙草入れを忘れたことに気がつき、戻ろうとした。人混みを通り抜けるのは大変だった。彼はルポにこう書いている。
「腕でかき分けることも、身動きすることもできなかった」
これはギリャロフスキーのミスだった。人々は互いに押し合いながら、ビュッフェに向かっていた。彼は、人の流れに逆らいつつパビリオンに行こうとあがき続けたが、ついに不幸な人々の真っただ中で立ち往生した。
人々は、ぎゅうぎゅう押し合いへし合いし、子供たちは群衆の頭上に押し出された。子供の中には、群衆の頭を踏んで安全な場所にたどり着けた者もいた。圧迫された人々が失神し始めた。しかし倒れる場所もないので、そのまま立っていた。ムッとする人いきれが、野原の上に濃霧のように立ちこめた。
やがて最悪の事態が起きる。ビュッフェにいた協会員(この祝賀会で働いていた組織のメンバー)が、プレゼントを求め続ける人々の最初の列に、それを与え出すと、群衆の誰もがそれに気づき、ビュッフェに殺到して、いよいよ圧迫が強まり、一部の人が倒れ、他の者が彼らを踏みつけた。
群衆の間にはこんな噂が流れていた。プレゼントを包むスカーフにはそれぞれ、家、牛、馬が描かれており、それは、ニコライがもっと別の祝儀もくれるということだ、と。ビュッフェの職員は、群衆に贈り物を投げ、状況をさらに悪化させた。
「それは10分以上続き、どうにも耐え難かった」。ギリャロフスキーはルポに書いている。しかし、自分が体験した「拷問」については、詳細は省いている。ただし回想録のほうでは、「私は完全に意識を失い、喉がカラカラだった」と記している。
数十人のコサック騎兵が群衆を蹴散らし始めたとき、ギリャロフスキーは脱出しようとし続けており、何とか安全な場所にたどり着いた。
「私は走路のフェンスの近くで倒れた。そして、草を引き抜いて貪り食った。それで喉の渇きが和らぎ、私は気を失った」
ギリャロフスキーは非常な長身で、信じ難いほどの体力の持ち主だった。そのおかげで彼は身を守り、生き残ることができたが、それでもひどく苦しんだ。 もっと弱い人々の嘗めた「拷問」は想像を絶するものだった。
その日のうちにギリャロフスキーは、「ロシア報知」にルポを書いた。翌5月19日、それは同紙に掲載された。ホドゥインカの悲劇に関する唯一のルポだった。というのは、この悲劇について書くことは禁じられ、モスクワ総督のセルゲイ大公は、執筆の許可を「ロシア報知」だけに与えたからだ。その日、多くの外国特派員がギリャロフスキーにインタビューした。
セルゲイ大公は、悲劇について知らされると、惨事の跡を直ちに取り除け、と命じた。ニコライ2世と妻が午後2時に到着する予定だったので、このときまでにすべてが正常に復していなければならなかった。犠牲者はホドゥインカ原のいたるところで、とくに溝の中で発見された。また、井戸があって、そこに27人が転落して窒息死し、生き残ったのは一人のみ。さらに、多数の死者が、ホドゥインカ原からかなり遠くでも発見されている。ショックのあまり彼らは最初、負傷を感じず、遠くまで逃れ、そこで力尽きた。
ホドゥインカの大惨事の犠牲者
Public domain明らかにモスクワ当局は、犠牲者、被害者のほんの一部しか数えていない。公式の推定では、ホドゥインカの悲劇は、死者が1389人、負傷者900人以上。死者は主にヴァガニコフスコエ墓地に運ばれた。
新帝と皇后がホドゥインカに向かう際、夫妻は荷車に死者と負傷者が乗せられているのを見た。ニコライ2世はすでにすべてを知っており、この悲劇でひどく動揺した。後に、彼は日記にこう書いている。
「この知らせは、忌まわしい印象を私に残した」。
そして、大量の圧死にいたらせたことを「大罪」と呼んだ。
いずれにせよニコライ2世は、祝賀を続けることにした。ホドゥインカでは賛美歌が演奏され、人々はツァーリとその妻を歓迎した。
1896年5月18日、ホドゥインカ原での祝賀行事
Public domainその夜、ニコライは、フランス大使モンテベロ主催の舞踏会に出かけた。大蔵大臣セルゲイ・ウィッテは回想録でこう振り返っている。
「しかし、陛下はすぐに舞踏会を去った…。明らかに、大惨事は陛下に強烈な印象を与えていた」。
ウィッテはまた、ニコライが自分の意志だけで決められたなら、すべての祝賀行事を取りやめただろう、と確信していた。
犠牲者の家族は見舞金を与えられ、皇帝と皇后は翌日、病院の負傷者を訪ねた。にもかかわらず、ニコライ2世の権威は損なわれた。モスクワ市民は、ニコライが祝賀行事を中止しなかったことを犠牲者への冒涜とみなした。
1896年5月18日、ホドゥインカ原
ギリャロフスキーは、回想録の中で、新聞印刷会社の年老いた印刷工の言葉を思い出している。「この陛下の治世は何も良いことはあるまい!」。この種の予測、予感は多く語られた。
ホドゥインカの悲劇はまた、祝賀行事を組織したセルゲイ大公の評判を台無しにした。彼は、「ホドゥインカ公」というあだ名をつけられたのである。確かに、この大祝賀会の組織・運営がうまく行われていれば、こんな悲劇は避けられただろう…。
現在のホドゥインカ原
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