ソ連の血の日曜日:1962年のノヴォチェルカスク虐殺事件

ロシア・ビヨンド、所蔵写真
 死者26人、負傷者数十人、処刑者7人、投獄者数百人。1962年、ロシア南部の町ノヴォチェルカスクで、非武装の労働者らの抗議活動がソビエト軍によって暴力的に鎮圧された。この事件はソ連が崩壊するまで数十年間隠蔽されていた。

 1962年、セルゲイ・ソトニコフは25歳だった。学校を7年で卒業した彼は、ノヴォチェルカスク電気機関車工場で機関士として働き始めた。彼の父親は戦争で死に、母親は病院で看護師をしていた。ソトニコフは共産党員で、2人の娘を持つ親として勤勉に働いていた。彼に前科はなかった。家族は貧しかった。後に国家保安委員会(KGB)の捜査員がソトニコフの所有物の一覧を作成しようとした際、彼には何も申告するものがなかった。

 1962年6月1日、ソトニコフは工場でデモ集団の中におり、他の工場の労働者をストライキに巻き込むことを提案した。そして彼は、別の工場へストライキ参加を促しに行く集団に加わったが、試みは失敗に終わった。

 ソトニコフは銃殺刑を言い渡された。ノヴォチェルカスク電気機関車工場でのストライキの後、彼を含めて7人がソビエト当局によって処刑されたのである。事件に対する当局の理不尽で常軌を逸した残酷な対応は、ソ連史の最も暗い一ページとなっている。この忌々しい事件はソ連が崩壊するまで隠蔽されていた。 

ストライキの理由

ノヴォチェルカスク電気機関車工場

 ニキータ・フルシチョフ政権によって1950年代後半から1960年代前半に導入された経済・貨幣改革は、その効果が疑わしいものだった。1961年のルーブルのデノミ以前に、アルセーニー・ズヴェレフ財務相が辞任した。彼は、デノミが破滅的な影響をもたらすと考えたのだった。そしてそれは正しかった。公式には10分の1のデノミ(10ルーブルが1ルーブルになった)が実行されたが、物価はほとんど変わらない場合もあった。食料品、特に肉と乳製品は価格が2~3倍になり、ソ連の最貧層、工場労働者には大きな打撃となった。

 ロストフ州ノヴォチェルカスクは、革命前は自由コサックの領土の首都だった。1962年にはソ連で最も貧しい地域の一つになっていた。ノヴォチェルカスク電気機関車工場は、町で最も資金の少ない工場の一つだった。労働者は劣悪な生活環境に置かれ、住居は家族で住むには狭すぎた。同工場では、極めて低い賃金で働くことに合意した元受刑者も多く働いていた。こうした条件が重なって工場は火薬庫となり、1962年6月初旬に吹き飛んだのである。不幸にも、工場の監督者らや現地当局は蜂起を防ぐ手立てを一切取らず、結局手遅れとなった。

工場の汽笛

ノヴォチェルカスク電気機関車工場の正門

 1962年6月1日金曜日の朝、ノヴォチェルカスク電気機関車工場の労働者は乳製品と肉の更なる値上げを知った。奇しくも(そして明らかに、工場の指導部が見て見ぬふりをしたことがあだとなり)、前日には労働者は労働ノルマが引き上げられる一方で、賃金は変わらないという話を聞いていた。午前7時30分、製鋼所の労働者は仕事を止め、状況について議論するために集まった。当初「議論」は控えめなものになるはずだった。歴史家のウラジーミル・コズロフが自著『知られざるソ連』(“Неизвестный СССР”)に記しているように、労働者は「KGBが報告し得たよりも遥かに激しい表現を使ったかもしれない」。彼らは公然とソビエト政府や共産党、さらにはフルシチョフ総書記をも罵り始めた。当時はこれだけで犯罪だった。 

 他の労働者らも製鋼作業員に加わり、ストライキは工場の敷地内の公園で継続された。工場当局が労働者に職場に戻るよう促したが、これは無視され、罵声を浴びせられた。工場長ボリス・クロチキンは事態の沈静化に乗り出したが、彼は「肉を買う金がないなら、レバーのパティを食え」というまるで馬鹿げた発言をした。この侮辱で労働者の怒りに火が付いた。クロチキンは辛うじて管理棟の中に逃れた。工場の最初の休憩時間である午前11時までには200人以上の労働者がストライキに参加していた。

ノヴォチェルカスク電気機関車工場の管理棟所蔵写真

 当時妻が妊娠していた24歳のヴャチェスラフ・チェルヌィフは、後に捜査官に語っている。「肉やバターを買うには、はるばるロストフまで行かなければならなかった。なぜ[ノヴォチェルカスクは]これほど物が少ないのか。結論は一つ、当局が労働者の要望に十分な注意を払っていないからだ」。6月1日、チェルヌィフと15人の労働者は、工場の制御室へ行き、大音量で汽笛を鳴らした。それから、彼と工場の看板画家コロテエフが横断幕に「肉、牛乳、賃上げ!」というスローガンを書き、工場の中庭に立つポールに高々と掲げた。この掛け声で、労働者の抗議運動は力を増した。

 ノヴォチェルカスクのような町では、工場の汽笛が鳴るというのは工場の非常事態を意味した。間もなく、休暇で家にいた労働者(酒を飲んでいる者もいた)も工場の広場に現れ、こうして制御不能な大暴動が始まった。

「フルシチョフを食肉に!」

発見されたノヴォチェルカスクのストライキの写真

 正午までに5000人の暴徒が工場近くに集まった。彼らはロストフに続く鉄道を封鎖し、旅客車を止めた。誰かが機関車にチョークで「フルシチョフを食肉に!」と書きつけた。事態に急速に暗雲が立ち込め始めた。「肉、バター、賃上げ!」――群衆は列車を囲んでシュプレヒコールを上げた。人々は機関車を演台にして、即興で抗議演説を始めた。演説者の中には酔っ払いもいた。だが、抗議運動をする労働者の大半は、当局が彼らの請願と呼び掛けに耳を傾けるだろうと信じていたらしかった。しかし、夫を第二次世界大戦で失くし、3人の子供を育てていた清掃員マリア・ザレチナのように、「地獄へ落ちろ、太った豚ども! 打倒共産党!」と本音で叫んでいた者もいた。

 午後4時までに、共産党の現地トップ、アレクサンドル・バソフ第一書記を含め、町と地方の当局は全員工場の管理棟に集まっており、労働者がその扉を開けようとしていた。労働者はファサードのフルシチョフの肖像を外し、踏みつけた。バソフはバルコニーから拡声器を使って暴徒に呼び掛けようとしたが、労働者は彼に石や瓶を投げつけ始めた。現地民警の警官200人が呼ばれたが、労働者に数で圧倒されて退却した。8時、兵士と3台の装甲兵員輸送車が工場に現れた。しかし、彼らは抗議運動参加者を攻撃しなかった。当局者が工場から逃げる間、労働者の注意を逸らすことだけが目的だったのだ。しかし、兵士が現れても労働者は動じなかった。兵士は間もなく撤退し、暴徒はバリケードを張って夜遅くまで工場の広場に陣取った。

虐殺

アナスタス・ミコヤン第一副首相(1895-1973)

 6月2日の早朝、戦車がノヴォチェルカスクに入った。これは抗議運動参加者を怯えさせ、激怒させた。一部は金槌で戦車を攻撃した。人が戦車に轢かれたという噂も出た。一方、モスクワからアナスタス・ミコヤン第一副首相、共産党中央委員会書記のフロル・コズロフとアレクサンドル・シェレーピンを含め、党高官が慌ただしくノヴォチェルカスクに入った。ストライキは国家レベルの事案となったのだ。しかし、ストライキの事実がノヴォチェルカスクの外に知られないよう対策が取られた。マスメディアや新聞は事件を報じなかった。フルシチョフは情報が漏れて多くのソビエト市民が憤慨することを恐れていた。

 6月2日、工場にやって来た労働者は、すべての入口に兵士が立っているのを見て「銃口の下で」働くことを拒んだ。ストライキが再開した。鉄道では再び列車が止められた。町の他の工場もストライキに参加し、昼までに大勢の抗議運動参加者が、党高官が集まっていた当局の主要な建物を目指して町の中心に向かった。群衆はソ連の旗とウラジーミル・レーニンの肖像を掲げ、これが自分たちの権利を要求する平和的な労働者ストライキであることを示した。群衆の行く手は戦車に塞がれたが、労働者はどうにか突破した。

当局の建物、現在様子

 群衆は当局の建物を襲い、中に侵入し、破壊し、閉じ込められた官僚らを殴打した。彼らはソビエト政府のナンバー2であるアナスタス・ミコヤンに会わせるよう要求した。だがこの時までに、労働者の暴動に恐れをなしたミコヤンや党の高官らは避難していた。暴動は続いた。突然、自動小銃を持った50人の兵士が群衆の前に現れた。その司令官、イワン・オレシコ少将が群衆に呼び掛け、解散するよう命じたが、怒号と脅迫を浴びただけだった。群衆は圧力をかけ、兵士を攻撃しようとした。

銃殺刑が言い渡された労働者たち:ウラジーミル・シュワエフ(1937-62)、セルゲイ・ソトニコフ(1937-62)、ミハイル・クズネツォフ(1930-62)、ボリス・モクロウソフ(1923-62)、ウラジーミル・チェレパノフ(1933-62)、アンドレイ・コルカチ(1917-62)、アレクサンドル・ザイツェフ(1927-62)

 次に起こった出来事についてはさまざまな証言があるが、ほとんどの情報では、2発の警告射撃の後、軍が群衆に向けて発砲したという。その場で15人の抗議運動参加者が死亡、数知れない人々が負傷した。群衆はパニックに陥り逃げ出した。町中に、ストライキ中の非武装のソビエト労働者に向けて発砲したという噂が流れた。ノヴォチェルカスクは静かな恐怖に沈んだ。歴史家タチアナ・ボチャロワが引用しているKGBのデータによれば、この日26人が死亡、87人が負傷したという。発砲事件後間もなく消防車が広場に入り、血痕をすべて洗い流した。

 その後、この日殺害された人々の遺体はノヴォチェルカスク地方のさまざまな墓地に無名で埋葬された。共産党当局が公式に哀悼の意を表したり、この恐ろしい殺人事件の責任を認めたりしたことはない。

殺人的な静けさ

ノヴォチェルカスク虐殺事件の犠牲者の再埋葬、1994年

 6月3日、暴動は治まった。3日目にかけて酒を飲んでいた孤独なデモ参加者が、通りをさまようだけだった。一方、民警とKGBはストライキの指導者らを逮捕していた。党書記のフロル・コズロフは、町を落ち着かせ、暗い事件の責任をすべて「フーリガンと扇動者」に負わせようと、現地ラジオ局でノヴォチェルカスクの人々に呼び掛けた。当局は発砲の事実を断固否定し、事件に言及すればKGBの尋問を受けたり、投獄されたりする可能性があった。6月3日から4日にかけて240人以上が逮捕された。

プーチン大統領がノヴォチェルカスク虐殺事件の記念碑に献花する

 裁判は全国的に非公表とされた。裁判はノヴォチェルカスクで1962年8月に一度だけ開かれ、その判決は極めて厳しいものだった。ただ現場に居合わせただけの多くの人々、合わせて105人が10~15年の懲役刑を受け、過酷な矯正労働収容所に送られた。

ノヴォチェルカスク虐殺事件の記念碑

 7人が銃殺刑に処された。事件が公表されたのは1980年後半になってからだった。その頃までに、発砲事件に関わる大半の資料、写真、音声記録は紛失ないし破棄されていたことが明らかとなった。

ノヴォチェルカスク虐殺事件犠牲者の遺骨の分析、1994年

 1990年代後半になってようやく人々が残忍に撃たれた場所が明らかとなったが、彼らの遺体の大半は未だ見つかっていない。ソ連は事実を隠蔽し、史上稀に見るおぞましい事件に関する記憶を葬り去るためにあらゆることをしたのだった。

 当局側の発砲事件の責任者で処罰を受けた者は一人もいない。

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