「デカブリストの乱」とは何か?いつ誰が何のために起こしたのか?

デカブリストの乱

デカブリストの乱

Vasily Perov/State Museum of the History of Religion
 これは、ロシア帝国における、暴力による権力打倒に最も近い試みだった(もちろん、1917年のロシア革命の前では、ということだが)。デカブリストの乱に関する最も一般的なQ&Aをここに用意した。これを読んで、ロシア史について新たな知識を仕入れ、友達を感動させよう!

デカブリストとはどんな人たちか?

サンクトペテルブルクの「北方結社」の会合でパーヴェル・ペステリが演説している

 デカブリストは、ロシア軍の将校、貴族であり、さまざまな反体制秘密結社のメンバーであり、1825年にデカブリストの乱を起こすにいたる。計600人以上のデカブリストとそのシンパがいた。

 彼らの中には、ロシア帝国の名門貴族が含まれていた。近衛連隊将校の、アレクサンドル・ムラヴィヨフ、パーヴェル・ペステリ、ニキータ・ムラヴィヨフ、イリヤ・ドルゴルーコフ公爵、セルゲイ・トルベツコーイ公爵、その他多くの若い貴公子だ。

 大詩人アレクサンドル・プーシキン、自由主義的な政治家ミハイル・スペランスキー、アレクセイ・エルモーロフ将軍なども、デカブリストたちには同情的で、これらのシンパの一部は、かろうじて事件への連座を免れている。

 1825年12月14日、将校たちは約3千人の兵士を率い、新帝ニコライ1世に対し反乱を起こした。ニコライは、その前日に即位したばかりだった。しかし蜂起は、政府軍により鎮圧され、多数の死者を出した。

 事件後、579人の貴族が取り調べを受け、316人が逮捕され、121人が裁判にかけられた。うち5人は絞首刑に処せられ、他の者は流刑などの様々な処罰を受けた。貴族以外にも、4千人以上の兵士が、連隊を北カフカスに移されるなどして罰せられている。

 

デカブリストは何を目指したか?

パーヴェル・ペステリ

 デカブリストの指導者たちは、ロシア帝国の政権と体制を打倒し、皇帝と皇室を逮捕するつもりだった。二つの主要な文書があって、これには将来の政治体制の青写真が含まれており、反乱後の指針となるはずだった。

 「ルースカヤ・プラウダ」は、デカブリストの南部の組織「南方結社」を率いたパーヴェル・ペステリが起草している(この文書は、キエフ大公国の法令集にその名を借りたもので、「ロシアの真実、正義」という意味であり、憲法草案であった)。彼は、デカブリストのなかでも最もラディカルな人物だった。

 この文書によれば、ロシアは共和国になるはずで、暫定政府が尊敬される人々により構成される。皇族は、君主制の復活を防ぐために、抹殺される。

ニキータ・ムラヴィヨフ

 もう一つの文書は、ニキータ・ムラヴィヨフによる「憲法」だ。これは、ロシアを立憲君主国と宣言し、皇帝は国の代表として名目的な役割を果たすのみ。

 しかし、これら以外の計画は非常に曖昧だった。それというのも、デカブリストたち自身にしてからが、反乱の行方について大いに疑念を抱いており、何年もそれを延期していたからだ。

 

なぜデカブリストはロマノフ朝の専制を打倒しようとしたか?

サンクトペテルブルクの元老院広場、1825年12月14日

 ナポレオン帝政を倒した「諸国民の戦い」(1813年3月~1814年5月)の間に、ロシア軍は全ヨーロッパを通って進軍した。将校と兵士は、欧州の農民、市民、貴族の日常生活を目の当たりにした。そして、多くのロシア貴族は、ロシアの状況を変えたい――農奴を解放し、ロシアに憲法を導入したい――という願望を抱いて帰国する。

 これらの思想は、フランス啓蒙主義、百科全書派、アメリカ合衆国憲法などに触発されたものだ(ニキータ・ムラヴィヨフが起草した憲法は、基本的に、米国憲法の大まかな翻訳だと言える)。憲法導入のアイデアは、アレクサンドル1世の治世の初期にもあったが、ナポレオン戦争での勝利の後、この皇帝は次第に、ロシアのいかなる種類の改革からも遠ざかっていった。

 アレクサンドル1世は、秘密結社の存在と憲法導入の希望を知っていたが、そうした考えは容認できぬことを強調し、1822年に、ロシアのすべての秘密結社とクラブを禁止した。デカブリストは、自らの計画を実行する唯一の方法として、ロシアの君主制打倒を考えるようになる。

 

デカブリストはいかにクーデター計画を練ったか?

デカブリストの乱

 デカブリストはいくつかの秘密結社を創り、目標を宣言した。すなわち、社会悪の根絶、汚職との戦い、民衆の啓蒙への支援。

 デカブリスト最初の秘密結社は「救済同盟」(1816~1817年)で、これは間もなく「福祉同盟」(1818~1821年)に変わった。この組織には、200名以上のメンバーと約15の「支部」があったが、上位30名のメンバーだけが、憲法導入を目指すクーデターが計画されていることを知っていた。

 1821年頃までに、「福祉同盟」は貴族の間に知れわたるようになり、解散する必要が出てきた。それで、パーヴェル・ペステリが指導する、キエフのより過激な「南方結社」と、ニキータ・ムラヴィヨフ率いる、サンクトペテルブルクの「北方結社」に分裂した。

 1825年秋までに、二つの結社は、クーデターを1826年夏に実行することで合意する。アレクサンドル1世と、その弟であるコンスタンチンとニコライは、ロシア南部での大軍事演習に際し逮捕、拘束し、これと同時に、サンクトペテルブルクで武装蜂起を決行するはずだった。

 だが、1825年11月19日に、アレクサンドル1世が、ロシア南部のタガンログでの保養中に急死。その知らせが、11月27日にサンクトペテルブルクに届く。新たな事態を受け、デカブリストの計画は急遽変更しなければならなかった。

 

なぜデカブリストの乱は起きたか?

コンスタンチン・パヴロヴィチ

 アレクサンドル1世が死去した後、ロシアでは2週間にわたり「空位」となった。ロシアの帝位継承法によると、コンスタンチンが次の皇帝になるべきだったが、実は、1823年にコンスタンチンは即位を辞退する文書に署名していた(彼は、ポーランドの貴婦人ヨアンナ・グルジンスカと密かに貴賤結婚をしていたため、ロシア社会を混乱させる恐れがあった)。そのため、帝位はニコライに移譲することになっていたが、ニコライ当人はそのことを知らなかった。それを承知していたのは、アレクサンドルが信頼する3人の廷臣のみだった。

 アレクサンドル1世死去の悲報が届くと、ニコライとすべての廷臣、官僚、軍隊、そしてサンクトペテルブルクの人々は、コンスタンチンを新帝として忠誠を誓い始め、公式の書簡が、コンスタンチンの住むワルシャワに送られた。彼はニコライに返事を送り、何年も前に即位を辞退した、どうにもならぬと明言した。

ニコライ1世

 しかし、この返信が届くのが遅れ、ニコライが手にしたのはやっと12月7日。この間ずっと、ロシアではコンスタンチンが新帝だと思い込んでいた。返事を読んでニコライは、自分が権力を担わねばならぬことを理解した。12月13日、彼は自分の決定を発表し、翌14日に宣誓式を行うこととした。

 デカブリストたちは、これが権力を掌握する最後のチャンスであることを悟った。 ニコライは、何によらず厳格で過ちを見逃さないため、近衛連隊などいくつかの部隊で評判が悪かった。

 デカブリストは、サンクトペテルブルクでの宣誓式を妨害することを計画した。つまり、将校たちは、近衛連隊の兵士に蜂起させ、冬宮を奪取し、ニコライとその家族を逮捕し、暫定政府樹立を宣言することになった。セルゲイ・トルベツコーイ公爵が、反乱を率いる「独裁者」に選ばれた。

 

デカブリストの乱の顛末は?

冬宮殿の中庭、1825年12月14日

 ところが12月14日の当日、いく人かのデカブリストが任務遂行に失敗する。ピョートル・カホフスキーは、冬宮に忍び込んで皇帝を殺すことを拒んだ。その後、アレクサンドル・ヤクボヴィチは、2個連隊を指揮して冬宮を占領することを拒否。おまけに、デカブリストの一人であるヤコフ・ロストフツェフは、反乱の計画についてニコライ1世に密告していた。

 12月14日の朝、デカブリストの将校は、3個連隊を集めて、ニコライに反旗を翻した。計3千人以上の近衛連隊は、サンクトペテルブルクの元老院広場に行進した。ここは、冬宮からわずか徒歩数分の距離だったが、そこで彼らは、何もせずただ立っていた。「独裁者」のトルベツコーイ公爵がなぜが広場に現れなかったからだ。デカブリストは厳しい状況に陥った。彼らはその場で直ちに新しいリーダーを選ばなければならなかった。

 その間、皇帝に忠実な連隊は反乱軍を2回攻撃したが、反乱軍は猛攻に耐えた。広場は野次馬であふれた。ニコライの弟、ミハイル大公や、サンクトペテルブルク総督であるミハイル・ミロラドヴィチ将軍など数名が、反乱軍の前に行き、降伏せよと訴えたが、無駄だった。ミロラドヴィチは、デカブリストの将校らによってその場で射殺された。ニコライ1世は後に弟ミハイルにこう言った。「この事件でいちばん不思議なのは、お前も私も射殺されなかったことだ」

 日没前にニコライはついに、反乱軍に対する砲撃を命じた。反乱軍は瞬く間に四散した。彼らは広場からネヴァ川に逃走し、その氷上で隊列を整えてペトロパヴロフスク要塞を攻撃しようとした。だが、砲弾が氷を割ったため、多数の者が溺死した。19世紀の秘密警察の報告によると、この日は計1271人の兵士、将校、および民間人が死んだが、実際の犠牲者数はもっと多かっただろう。

 その15日後、ウクライナでもう一つの反乱が起きた。南方結社によって組織されたものだ。

 12月14日の反乱のニュースがロシア中に広まると、デカブリストの指導者の1人、セルゲイ・ムラヴィヨフ=アポストルは、トリレシー村で拘束されたが、12月29日に味方によって解放され、チェルニゴフ歩兵連隊を率いて蜂起した。しかし、1826年1月3日、政府軍によりこの反乱も鎮圧され、彼は再逮捕された。

 

デカブリストはいかに罰せられたか?

デカブリストの処刑

 捜査は徹底を極めた。デカブリストのすべてのメンバーは尋問を受け、皇帝自身から尋問された者もいる。彼らの陳述(彼らの目標に関する陳述も含む)、政府に対する批判、憲法に基づく計画等が記録されて、資料は数巻にもなった。

 ニコライ1世は、後にこれらの資料に繰り返し言及し、デカブリストを皮肉に「私の14番目の(14日の)友人」と呼んだりした。

デカブリストたちの流刑地。東シベリア、チタ

 計121人の貴族がいろいろな形の処罰を受けた。デカブリストの指導者5人は、絞首刑を宣告された(これは貴族にとって恥ずべき死だった)。処刑は、1826年7月13日に秘密裏に行われている。

 1週間以内に、様々な量刑のシベリア流刑を宣告されたデカブリストたちは、サンクトペテルブルクから出発し始めた。

 デカブリストに対する様々な処罰の中には、貴族身分の剥奪、終身懲役、一兵卒への降格、カフカスへの異動、シベリア流刑などが含まれていた。

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