ロマノフ家の人々は何語を話したのか?:歴代ツァーリの言語スキル

Winkimages / Freepik; Konstantin Kokoshkin撮影/Global Look Press; Hermitage Museum
 ロシア帝国の皇室の人々はマルチリンガルだった。子供のころから将来の皇帝や大公、大公女たちは、少なくとも2~3の外国語を学んだ。なかには、ロシア語が英独仏語などより馴染みが薄い人もいた。

 19世紀のロシア帝国では、ロマノフ家の人々は、成長するなかで自然といくつかの外国語を学んでいった。「良い教育と外国語は、母国語と同じく、宮廷で重要な指標になっていた」。歴史家イーゴリ・ジミンは、ロマノフ家の日常生活に関する著書でこう指摘している。「それにより人間が二種類に分けられた。つまり、仲間とよそ者とに」

 ロマノフ家にとって、最も重要な言語は、ロシア語をのぞけば、フランス語、英語、ドイツ語の3つだった。

 19世紀のロシア貴族は皆フランス語を話した。また、貴族の家庭にはたいていイギリス人の住み込み女性家庭教師がいたから、英語も知っていた。さらに、ロシアの皇帝や大公はふつうドイツの王女、公女と結婚したから、この言語も必須だった。

 これらの3つの言語、英独仏を知ることで、ロマノフ家は、ヨーロッパの最も強力な国家と結びついていた。アレクサンドル1世(1777~1825)をはじめとし、彼以降の皇帝をすべて詳しく見てみよう。アレクサンドル1世は、宮廷クーデターが相次いだ時代に終止符を打って登場した。

アレクサンドル1世:忠実な“フランス語派”

 アレクサンドル1世の治世の当初は、ほとんどのロシア貴族がロシア語よりフランス語を好んでいた。皇帝のフランス語も見事なものだった。「宮廷ではフランス語が優勢だった。アレクサンドル1世は、ナポレオンとの会見でもフランス語を話したが、コルシカ島出身の相手よりも上手だった」。歴史家レオニード・ヴィスコチコフは、自著『皇宮の平日と休日』でこう述べている

 1812年のナポレオンのロシア遠征で状況は変わった。貴族たちはロシア語使用に傾いたが、それでもフランス語は依然として人気があった。なお、アレクサンドル自身はドイツ語と英語も話した。彼の祖母、エカテリーナ2世が可能なかぎり最高の教師をあてがったためだ。

ニコライ1世:言語革命

 アレクサンドル1世の弟で次代の皇帝ニコライ1世(1796~1855)も、マルチリンガルだった。アンドレイ・コルフ男爵は、「陛下は来賓に対し、ロシア語、フランス語、ドイツ語、英語で話した。いずれの言葉も等しく流暢だった」と語っている。

 しかしツァーリ自身は、英語に自信がなかった。実際に使う機会が滅多になかったから。そこで、あるとき彼はアメリカ大使に、自分がこの言葉を話せるように、貴下ともっと頻繁に会わねばならない、と言ったという。ジミンは自著にそう書いている。

 その一方でニコライ1世は、宮廷でロシア語を使わせようとした最初の皇帝であり、廷臣とロシア語で話し始めた。ある意味で、これは真の「言語革命」だったが、それでもフランス語使用を一掃することはできなかった。

 ニコライ1世の妻アレクサンドラはプロイセンの王女として生まれ、ロシア語と悪戦苦闘した。彼女のロシア語教師は、詩人ワシリー・ジュコフスキーで、いつも彼女を詩や物語で楽しませたが、文法を教え込むことには失敗した(確かにそれは複雑かもしれない)。皇后は生涯、ロシア語が下手なことに引け目を感じ、それで話すことを避けた。彼女は夫ニコライとはフランス語で話した。

アレクサンドル2世:ポーランド語を話す皇帝

 ニコライ1世の後を継いだ息子、アレクサンドル2世(1818~1881)は、言葉の“標準パック”、つまり英独仏を学んだ。しかし父は、ラテン語を息子の教育から外し(ニコライ自身はそれを嫌った)、政治的理由からポーランド語を加えた。

「ニコライ1世は、当時ロシア帝国の一部であったポーランドと政治問題を抱えていること、そしてそれが終わらぬことを認識していた」。イーゴリ・ジミンはそう記している。

 そこでニコライは、自分の後継者がポーランド語を知り、この問題に取り組む用意ができているべきだと考え、それを確かめることに決めた。これは賢明な決断だった。1863年、アレクサンドル2世は、ポーランドの反乱を抑えなければならなかった。

 アレクサンドルの妻マリアもプロイセン王女であったが、姑(夫の母親)とは違って、ロシア語をよく知っていた。そして宮廷でのロシア語使用の主たる推進者でもあった。当時、宮廷はフランス語に戻っていた。

アレクサンドル3世:玉座の愛国者

 アレクサンドル3世(1845~1894)はふつう、巨大なひげをたくわえたロシアの真の巨人として描かれる。ごく若いころから彼は、母国語を支持した。フランス語を好む廷臣と話すときにも、頑固にロシア語のみで応答した。

 もちろん、皇帝は外国語を知っていた(もっとも、子どものころは、かなり勉強に苦労した)。しかし、ロシアに仕える人間がそのルーツにこだわることを望んだ。ロシア語を宮廷で必要不可欠な言葉にしたのは彼だった。彼のデンマーク人の妻、マリアもロシア語をよく学んだ。

ニコライ2世:外国語なまりのあるツァーリ

 ロシア帝国最後の皇帝、ニコライ2世(1868~1918)は、フランス語にかわり英語が世界のコミュニケーション言語となった時期に、ロシアを治めた。彼の言語スキルにもこうした状況が反映している。彼の伯父アレクサンドル大公はこう回想している。「彼の教育課程が終わりに近づいたころは、ニコライは、オクスフォードのどの教授にも、自分は英国人だと思わせることができただろう」

 ニコライ2世は複数の外国語を話した(このリストの他の皇帝と同じく、独仏語もうまかった)。非常にうまかったので、廷臣たちが気づいたことだが、彼のロシア語には多少の外国語なまりがあった。いくつかの音を軟らかく発音したのである。

 また彼は妻アレクサンドラとは英語で話す習慣だった。彼女は、ドイツ帝国構成国のヘッセン大公国の出身で、英ヴィクトリア女王の孫娘だった。しかしアレクサンドラはロシア語もとてもよくできた。

 

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