ロシア帝国はいかにクリミアを併合したか

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 18世紀末、クリミア半島の支配権は、オスマン帝国からロシア帝国に移った。その複雑極まる経緯を9つの段階にざっくり分けて説明してみよう。

1. クリミアはかつてどんなところだったか?

 クリミア・ハン国はかつてキプチャク・ハン国(ジョチ・ウルス)の一部だった。キプチャク・ハン国が内部対立のために崩壊した後、1441年にクリミア・ハン国が創設された。

 1475年、クリミアのいくつかの重要な港が、オスマン帝国(テュルク系のオスマン家の君主を戴く大帝国)の一部に組み込まれた。また、クリミア・ハン国全体がオスマン帝国の衛星国家となった。そのため、黒海は、オスマン帝国とそれに従属する国、地域にぐるりと囲まれる。

 

2. なぜロシア帝国にクリミアが必要だったか?

 16世紀にキプチャク・ハン国がクリミア・ハン国によって滅ぼされると、ロシア(当時はロシア・ツァーリ国)が領土を拡大し始める。カザン・ハン国とアストラハン・ハン国を征服した後、ロシアはさらに南に進んだ。

 その間、クリミア・ハン国のタタール系遊牧民は、ロシア領周辺を略奪し、ロシア南部の貿易と農業を大いに妨げた。18世紀初頭までに、ロシアがさらに発展するためには、黒海への出口が必要であることが明らかになった。

 

3.「その時」はいつ到来したか? 

グリゴリー・ポチョムキン公爵

 1736~1737年、ロシア軍はクリミアに侵攻、通過した。しかし、ロシアは補給線を維持できなかった。ロシア本土は、あまりに広大な平原によって、クリミアから隔てられていたからだ。その平原とは、大まかに言えば、ポントス・カスピ海草原、黒海とアゾフ海の北部、ウクライナの南部および東部である。

 クリミアに軍隊を送り、しかもうまく補給を行う可能性は、ようやく1760~1770年代に生まれた。ロシアの新たな行政府、ノヴォロシア(「新しいロシア」の意味)が1764年に設立されたからだ。物資がこの黒海北岸の新行政府から届き始めたことで、クリミアに進む可能性が現実のものとなった。こうした一連の動きは、グリゴリー・ポチョムキン公爵の管轄、指揮の下で行われた。彼は、エカテリーナ2世の寵臣であり軍事問題の顧問だった。

 

4. 併合は強制的だったか?

ワシリー・ドルゴルーコフ

 1768〜1774年の露土戦争では、ロシアの主要な目標はクリミアだったろう。1771年までに、クリミア・タタール人はトルコのために戦うことを拒否しており、一方、オスマン帝国の指導部は、クリミアを「保護」して従属国としてつなぎとめだけの軍事力を持っていなかった。

 1771年夏、ワシリー・ドルゴルーコフ将軍率いるロシア軍はわずか16日間でクリミアを占領した。トルコの傀儡、セリム3世ギレイは、コンスタンティノープルに逃亡した。

 1772年、新しい親ロシアのクリミア・ハン、サヒブ2世ギレイは、自分の国を、ロシアの保護下にある「自由な国家」と宣言した。しかし、オスマン帝国はこれを認めようとせず、戦争は続いた。

 

5. トルコ軍は撤退したのか? 

ハンのシャヒン・ギレイ

 1774年、オスマン帝国はロシアと、クチュク・カイナルジ条約を結ばざるを得なくなった。これにより、クリミア・ハン国は、オスマン帝国とロシア帝国から正式に独立したが、ロシアはケルチ(重要な軍港・貿易港)を獲得した。しかし、トルコのスルタンはなおも宗教的な影響力を保っていた。クリミアのハンは、スルタンによる承認を受ける必要があった。

 だからトルコ軍は、クリミアから撤退しなかった。スルタンは、最終的にはクリミア半島をオスマン帝国の版図に奪還できると期待していた。

 1776年、ロシア軍はクリミアに入り、別のハン、シャヒン・ギレイを即位させる。このハンは、クリミア半島へのロシア軍駐留に同意し、ヨーロッパ型の改革を始めようとした。

 だが、クリミアの住民は暴動を起こした。イスラム教徒の住民が、キリスト教徒の住民および親ロシアのハンに対して立ち上がったのだ。1778年にロシアは、暴動鎮圧のために、名将アレクサンドル・スヴォーロフを派遣しなければならなかった。

 

6. クリミアの住民は何をやったのか?

アレクサンドル・スヴォーロフ

 グリゴリー・ポチョムキンの指令を受けて、アレクサンドル・スヴォーロフは、クリミアに住むキリスト教徒の、ロシア本土への移住を監督した。場所は、黒海沿岸北部だ(1764年以降、この地域はノヴォロシアの一部に組み込まれていた)。アルメニア人、ギリシャ人、グルジア人など計3万人以上がクリミアから移住した。

 スヴォーロフは、トルコ軍のクリミア展開を阻止した。一方、1779年までにロシア軍の大半も引き揚げていた。スヴォーロフはノヴォロシアに配属される。しかし、トルコの工作員は、クリミアで騒乱を起こし続け、これに対し、ハンのシャヒン・ギレイは残虐なやり方で片端から鎮圧し続けた。

 

7. 併合はどんな形式をとったか?

 1782年までに、グリゴリー・ポチョムキンは、エカテリーナ2世に覚書を送っていた。「トルコ人の道を封鎖し」、黒海における帝国のプレゼンスを確保するために、クリミアをロシアに併合すべきである、というのがその内容だ。女帝は同意し、1783年4月19日に併合の正式な宣言を発した。

アク=カヤ山

 この布告を携えてクリミアに向かう途中、ポチョムキンは突然、シャヒン・ギレイが退位したことを知った。クリミア・タタールの貴族は公然と彼に異を唱え、形式的にロシアに支配されるほうがましだと考えたのだ。

 1783年、白い絶壁で名高いアク=カヤ山の平らな頂上で、ポチョムキンは、エカテリーナ2世の布告を厳かに読み上げた。これを受けて、クリミアの貴族と平民の代表は、ロシアの君主、エカテリーナ2世への忠誠を正式に誓った。 1784年の初めにオスマン帝国は渋々ながら、クリミアのロシア領としての新しい地位を容認した。

 

8. ヨーロッパの君主たちはどう反応したか?

 クリミア併合のニュースが国際的に広まると、フランスだけが抗議の意を表した。しかし、ロシアの外交官は、ロシアはコルシカの併合に反対しておらず、クリミアについても同じ対応をフランスから期待すると述べた。また、エカテリーナ2世はこう説明した。ロシアとオスマン帝国の国境は、緊張が高まっており、もっぱらそれを鎮めるために併合が行われた、と。

 

9. クリミア併合後は何が起きたか?

 1784年、クリミア半島の新たな「首都」、セヴァストポリがポチョムキンによって建設され、クリミアの行政府も設立された。クリミアの人口は大幅に減少した。イスラム教徒の大部分がトルコに流出したからだ。

 ポチョムキンは、ロシアの守備隊に対し、地元のタタール人を敬意をもって扱うべしと述べた。タタールの貴族はロシアの貴族として遇され、キリスト教徒の農奴を所有する権利を除いて、多くの特権を得た。

 ポチョムキンは、クリミアを「自分の」土地だとみなしていた。その彼が、クリミアを征服すると、多大な支援を同地に対して行った。こうして1780年代以来、クリミアでは、農業と経済の空前の発展が始まる。人口は徐々に回復し、 ロシア本土からの入植者によってさらに増えていった。

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