女帝エカテリーナ2世のクリミアへの訪問中。
次はクリミア獲得
ロシアは18世紀を通じ、黒海進出を目指して南下政策を進めてきたが、第一次露土戦争(1768~1774)でトルコ軍に勝利して、74年にクチュク・カイナルジ条約を結び、念願の黒海進出を果たした。
この条約で、トルコは、キプチャク・ハン国の流れを汲むクリミア・ハン国に対する宗主権を失い、ロシアにボスポラス海峡の自由航行権を与えた。
以後、女帝の愛人グリゴリー・ポチョムキンが中心となって、黒海北部沿岸地方の開拓を急ピッチで進めていくが、重要な戦略拠点であるクリミア半島の獲得の課題は残っていた。
「力の真空地帯」にして、根回しの上、併合する
クリミアでは、トルコの影響力が低下して、“力の真空地帯”となり、1779年には反乱が起こる。親ロシアのハンであるシャヒンが、親トルコ派に国から追い出されたのだ。1782年に、女帝の命で、ポチョムキンが内乱を鎮圧し、シャヒンをハンの位に戻したが、ポチョムキンは、これを機にクリミアを併合して直接統治することを女帝に進言する。
女帝は早速、オーストリアのヨーゼフ2世に根回しをして、併合の了解をとりつけ(といってもヨーゼフは反対しなかっただけだが)、翌83年4月8日に、トルコの条約違反を口実に、クリミアを併合する。
そして、同地の住民に対し、「わが臣民と等しく、当地の住民、財産、寺院、固有の信仰を保護することを厳かに宣言する」云々という布告が発せらたのが、今日4月8日だ。
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