『イヴァン・ヴァシーリビッチは職業を変える』=写真提供:kinopoisk.ru
ロシアでもっとも奇抜なツァーリの1人だったイワン雷帝の食卓に、何がのっていたのかは、歴史学者でも多くを知らない。「モスクワ事情」の著者で、オーストリアの外交官だったジークムント・フォン・ヘルベルシュタインの話が事実であるならば、ツァーリは根っからのもてなし好きだった。「正餐は3時間ないしは4時間続くこともあり、初めて当大使館が招かれた時は深夜1時まで食事をした...皇帝は次々に食べ物や飲み物をふるまった...」
より詳細な宴席の記述については、アレクセイ・トルストイの歴史長編小説「白銀公爵」に見つけることができる。「ハクチョウを食べると、召使いは2人ずつになって宮殿から出て行き、300羽ほどの焼きクジャクを持って戻ってきた...クジャクの後にはクレビャカ(大きなピログ)、クルニク(トリ肉ピログ)、肉やチーズの入ったピログ、あらゆる種類のブリヌィ(クレープ)、曲がったピロシキ、オラジヤ(揚げパンケーキ)が続いた...」。次に運ばれた料理はより印象的である。「テーブルにはまず、さまざまなストゥジェニ(煮こごり)が置かれ、その後スパイシーなハーブ入りのツル、ショウガ入りの塩漬けオンドリ、骨なしメンドリ、キュウリ添えカモが置かれた。その後さまざまなスープや3種のウハー(魚スープ)が運ばれてきた」
ツァーリは当時の古典的なロシア料理のみを賓客にふるまっていた。例えばクレビャカは、さまざまな具がたっぷりと入った、生地の薄い古風な閉じピログである。クルニクの具はそれほど多様ではなく、トリ肉、特にメンドリが主要な材料になっている。ストゥジェニとはひき肉入りの濃厚な肉のブイヨンの冷たい煮こごりで、ウハーは伝統的なロシアの魚のスープである。
ピョートル大帝の控えめな食卓
ロシアの初代皇帝であるピョートル大帝は、禁欲者とまではいかないが、節制の人だったと言われている。ピョートル大帝の戦友の一人で、機械工、彫刻家であるアンドレイ・ナルトフはこう想起していた。「ピョートル大帝はいかなる贅沢も、豪華さも、召使いの多さも好んでいなかった。食べていた料理は酸味のあるシチー(キャベツのスープ)、ストゥジェニ、お粥、塩漬けのキュウリやレモンのついた焼き肉、塩漬け肉、ハムで、リンバーガー・チーズをとても愛し、フェリテン料理長はいつもこれを出していた。酒はアニス酒、普通の飲料はクワス(麦類の発酵性飲料)、正餐ではエルミタージュ・ワイン(北ローナの赤ワイン)やハンガリー・ワイン(甘口のトカイ)を飲み、魚はまったく食べなかった...」
女帝エカチェリーナの啓蒙の味
女帝エカチェリーナは、当時もっとも教養のある女性の1人で、ヨーロッパの啓蒙思想を“伝道”し、中年期はピョートル大帝と同様、食べ物について控えめだった。歴史学者によると、好きな料理は塩漬けキュウリを添え、干したトナカイの舌のソースをかけた、煮込み牛肉だったという。ごちそうの中では有名なコロムナのパスチラー(ロシアの古典的なデザートで、果汁と砂糖と卵白を焼いた菓子)だった。キッチンに数十人の外国人コックを抱えていたポチョムキン公爵のもとで食事をする時は、フランス人料理長のつくる「爆弾ア・ラ・サルダナパール」を特に好んでいた。これは名前からもイメージ可能だが、さまざまな小動物からつくられるハンバーグである。
女帝エカチェリーナは正式な宴席では、控えめではなかった。「ロシア国の宴席史」という本では、パーヴェル・ロマノフ教授が、100種類以上の料理がのったある宴席を例をあげている。女帝と賓客には、数十種のスープ、脂肪分の多いメンドリ、トリュフ添えのライチョウ、ピスタチオ風味のキジ、スズキとハム、オリーブ入りカモ、カメ、子ヒツジのローストなどがふるまわれていた。どの料理もフランス風であった。これは典型的とも言える。女帝エカチェリーナの時代、ロシア貴族の社会ではフランス人料理長を呼ぶことがおしゃれだった。ロシア料理はその影響を受けて変わっていった。
変なロシア人がこんなものをくれた...
ロシアに不慣れな外国人にとって、皇帝のメニューは不思議なものだった。ロシアの君主が西ヨーロッパの君主に500グラムほどのキャビアを贈ったところ、西ヨーロッパの君主がコックにそれを煮るよう命じたという話は、歴史的なジョークになったほど。似たような状況は、アレクサンドル1世の時代のイギリス人大使にもあった。アレクサンドル1世は大使と美食について話すのを好み、ある時、話の続きとしてボトビニヤ(クワス、スイバ、ビーツの葉と茎と魚の入った冷たいスープ)を大使に贈った。すると大使は、また「変なロシア人」が冷めたスープなどを持ってきたと怒り、温めるよう命じた。
ロシアで奴隷制を廃止したアレクサンドル2世は、朝食や昼食に厳しい時間規則を導入したことで、料理界では有名である。どの食事もぴったり50分で終わらなければならなかった。アレクサンドル2世は食事の場所をしばしば変えており、時にそれはキッチンから遠かったため、時間厳守は困難であった。そのため、最初の料理、メインディッシュなど、料理を時間通りに、熱いまま次々と出せるようにと、召使いは試行錯誤した。最後には熱湯を使った大きな保温器を使い、料理の順番を待っていた。ソースの最初の味や香りは失われていたが、時間厳守の方が大切だった。
最後のメニュー
ロシア最後の皇帝ニコライ2世の食事の好みは、歴史学者によってより詳細に研究されている。例えばアレクサンドル・モソロフは書籍「皇室にて」で、「(クリミア半島リヴァディヤの夏の宮殿での)正餐はスープと、小さなボローバン、ピロシキ、またはチーズをのせたクルトンから始まっていた。ボローバンは海外のように独立した料理とはなっておらず、スープと一緒にふるまわれた。その後魚、焼き料理(小動物またはメンドリ)、野菜、スイーツ、フルーツと続いた。飲み物としては朝食の時にマデラ・ワイン、白ワイン、赤ワイン(希望に応じてビール)、昼食の後は他の文明世界と同様、さまざまなワインが出された。コーヒーにはリキュールが加えられた」
これらすべてをつくっていたのは、皇帝お気に入りのフランス人料理人ピエール・キュバ。1917年のロシア革命があって、このような皇室料理へのフランスの影響などは過去のものとなった。そして皇室料理自体も...この後はソ連料理の時代に突入する。
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