スヴャトスラフ1世は、ロシアの源流となった古代国家、キエフ大公国の大公だが、キエフにいることはあまりなく、国のかじ取りは母親のオリガに完全に任せていた。彼の生涯の意味は、まさしく戦争にあった。
スヴャトスラフは、数々の遠征で遊牧民のハザールとペチェネーグを破り、ブルガリア帝国に勝利して、帝国の首都プレスラフを占領し、ツァーリのボリス2世を捕らえた。
スヴャトスラフが多くの部族を征服したことで、キエフ大公国の版図は大いに広がり、その軍事的、政治的権威が高まった。
しかし、ビザンチン(東ローマ)帝国との衝突は、「戦う大公」、スヴャトスラフの敗北に終わった。972年、キエフに退く途中で、彼とその従者はペチェネーグに待ち伏せされた。
「そして、ペチェネーグの公、クリャは、スヴャトスラフを攻撃して殺し、その頭部を切り落として、頭蓋骨に金箔を貼って酒盃とし、酒を飲んだ」。『原初年代記(過ぎし年月の物語)』にはこう語られている。
1380年、クリコヴォの平原で、モスクワ大公、ドミトリー・イワーノヴィチは、ジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)で実権を握っていたモンゴルの軍司令官、ママイの大軍を壊滅させた。ロシア人は、これ以前にもモンゴル軍を破ったことはあるものの、これほどの大勝利はかつてなかった。
大公は、戦場に軍隊を巧妙に配置し、正面で敵に対峙した部隊が、モンゴル騎兵の猛攻撃に耐えた後、予備の伏兵が、モンゴル軍の予期せぬ攻撃を後方から行い、ついに勝利を収めた。
「若者たちが我々と戦い、精鋭部隊が温存されていた」。言い伝えによれば、ママイ軍の戦士たちはこう語ったという。
ドミトリー・ドンスコイという名は、「ドン川のドミトリー」を意味し、ドン川周辺で武功を挙げたことにちなむ。その彼の勝利は、しかし、モンゴルからのロシアの解放を直ちにもたらすものではなかった。
にもかかわらず、この大勝利は、解放に向けての重要なステップとなった。モンゴルへの貢納は不規則になり、ロシアの諸侯は今や、自分自身を守るだけでなく、長年の敵への遠征を組織するようになる。
また、モスクワは、ロシア統一に向けて、押しも押されもせぬ中心となり、ついに100年後の15世紀末に、モンゴル支配から完全に脱することができた。
ミハイル・スコピン=シュイスキーは、短命ではあったが(わずか23歳で亡くなった)、「大動乱」として知られている、ロシア史上の至難の時代にあって、最も傑出した人物の一人だった。
16世紀末にリューリク朝が断絶し、さらに経済難と飢饉に襲われたことでロシアは、政治的混乱、反乱、蜂起、外国の介入にも見舞われる。
1606年、若干20歳のときに、スコピン=シュイスキーは、ロシアのツァーリとなった叔父、ワシリー・シュイスキーによって軍司令官に任命された。まず、スコピン=シュイスキーは、イワン・ボロニコフによる反乱を鎮圧した。
同盟していたスウェーデンとともに(領土面での譲歩の見返りにロシアのツァーリを援助した)、スコピン=シュイスキーは、モスクワを包囲していたポーランド干渉軍と、彼らがかついでいた偽ドミトリー2世に対し何度も勝利した。冬の戦役の間、スコピン=シュイスキーは、スキーを履いた部隊を盛んに用いたが、これは騎兵よりもはるかに効果的であることが分かった。
1610年3月、スコピン=シュイスキーは、包囲を解かれたモスクワに堂々と入城した。彼は今や絶大な人気を博し、国民的英雄として崇拝され、今度はやはりポーランド軍が包囲していたスモレンスクに赴く準備をしていたが、同年5月3日に急死する。
若き英雄の予期せぬ死に、暗殺の噂が流れた。才能あふれる軍司令官を妬んでいた、ツァーリの弟で凡庸な軍司令官のドミトリー・シュイスキーが、そしておそらくは、ツァーリのワシリー・シュイスキー自身も、黒幕だったかもしれない。
ツァーリは、国民から称賛されていた甥に、自身の権力への脅威を見ていた。だが、この暗殺(?)は、シュイスキー兄弟に高くついた。間もなくこの二人は、ポーランド軍によって捕らえられ、虜囚として死んだ。
ピョートル・ルミャンツェフは、名門貴族の出身だが、若い頃は怠惰でいたずら好きで、粗暴な面があったが、やがてまさにこの男が18世紀最高の軍司令官の一人となる。
ロシアがプロイセンと戦った七年戦争で、ルミャンツェフが発揮したイニシアティブと個人的な勇気のおかげでロシア軍は、再三成功を収めた。1757年8月30日のグロス・イェーガースドルフの戦いでは、撤退中に彼は、命令を無視して予備軍を率いて戦闘に投入し、敗北を勝利に変えた。
1759年8月12日のクネルスドルフの戦いでは、ルミャンツェフ率いる部隊は、フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ザイトリッツの騎兵隊の猛攻を耐え抜き、その後、彼自らの指揮で反撃に出て、敵を潰走させた。
ピョートル・ルミャンツェフは、強い軍司令官であっただけでなく、慧眼な戦略家としての能力も発揮し、彼のアイデアは、ロシアの軍学の発展に大きな影響を与えた。
彼は、伝統的な線形戦術を忠実に守りつつも、緩やかなフォーメーションと方陣も用いた。また、将兵が戦場でより大きなイニシアティブを示すべきことを提唱し、迅速な機動戦の原則を考案した。
ルミャンツェフが選んだ戦略の正しさは、1768年~1774年の露土戦争における一連の大勝利にはっきりと現れた。例えば、1770年8月1日のカフルの戦いで、彼の1万7千人の部隊は、15万人のトルコ軍を倒し、戦死者は300人強にとどまった。敵の損失は2万を超えていた。
大元帥アレクサンド・スヴォーロフは、その軍歴を通じて、大きな戦いでは一度も負けたことがない。彼は、7つの大きな戦役に参加しており、その中には、ポーランド蜂起の制圧、オスマン帝国およびフランス革命政権との戦いが含まれる。
1790年に難攻不落と言われた、トルコのイズマイル要塞を占領し、1799年のトレッビアの戦いで、数で優勢なフランス軍を打ち破ったのはスヴォーロフだ。
スヴォーロフの戦略の基礎は、「目、速さ、猛攻」だった。状況を正しく判断し、敵の弱点を見つけると、敵の兵力をものともせず、迅速かつ敵の意表を突いて攻撃した。この点で彼は、同時代(18世紀後半)のほとんどの軍司令官とは違っていた。彼らは、守りを固め、兵力で優った場合にのみ、攻撃に出た。だが、スヴォーロフは別のルールを堅持した。すなわち、「兵力ではなくスキルで攻撃する」
アレクサンドル・スヴォーロフは、多数のフランス軍司令官を打ち破り、敵から真の尊敬を勝ち得た。
アンドレ・マッセナ元帥は、スヴォーロフのスイス戦役とアルプス越えは、自分がかつて得た勝利すべてに相当すると述べ、ジャン・ヴィクトル・マリー・モロー将軍は、トレッビアの戦いでのスヴォーロフの作戦行動を、軍事的芸術の極みと呼んだ。
ナポレオンも、大元帥を賞賛したが、偉大な軍司令官の心は持っているが叡智は無いと、含みのある言い方をした。
しかし、スヴォーロフには、将来のヨーロッパの支配者の見解を変えさせる機会はなかった。二人はついに戦場で相まみえることはなかったからだ。
ミハイル・クトゥーゾフは、スヴォーロフの最も才能ある愛弟子の一人で、1812年の祖国戦争(ナポレオンのロシア遠征)において、ロシア軍の総司令官となり、ナポレオンの「大陸軍」を破った。
1812年8月に、ロシア軍総司令官に就任したクトゥーゾフは、前任者のバルクライ・ド・トーリの戦術を堅持し続けた。つまり、ナポレオンとの大会戦を避け、内陸に奥深く撤退し、敵軍を疲弊させていった。しかし結局、将軍たちと世論の圧力を受けてクトゥーゾフは、モスクワから125キロ地点のボロジノ村付近で、「大陸軍」を迎え撃たざるを得なくなった。
ボロジノの会戦は、ナポレオン戦争中の最も重要な戦いの一つとなった。ここでクトゥーゾフは、戦いに真っ向から突入せずに、防御を固めつつ行動することを選択した。これにより、フランス軍は、ロシア軍の陣地へ無数の攻撃を敢行することで、貴重な人員を失っていった。
結局、露仏いずれも決定的な勝利を収めず、フランス皇帝はロシア軍を倒すことができなかった。しかしロシア軍は、戦闘能力と高い士気を依然保っていた。こうした状況は、ナポレオンのロシアでの敗北がもはや間近であることを意味していた。
ミハイル・スコベレフは、狷介で傲岸な性格のために、上官との折り合いはよくなかったが、兵士たちは、戦場での彼の大胆さと勇気のために崇拝した。
スコベレフは、容易に敵の標的となる白い制服、白い制帽を着用し、白馬に乗って攻撃を指揮することが多かったので、「白い将軍」というあだ名がついた。
スコベレフは、参謀本部に務めるようなタイプではなかった。一兵卒のような生活をし、部下と偵察に行き、文字通り、兵士たちと同じ釜の飯を食い、兵士のために良い制服と食事を上司から勝ち取った。だから兵士たちは、彼の行くところ、水火も辞せずついていく覚悟があった。
「白い将軍」は、中央アジアでロシアが繰り広げた戦争で、多くの勝利を収めたが、彼の軍歴のハイライトは、1877年~1878年の露土戦争だ。この戦いにより、バルカンの諸民族がスルタンから独立した。
スコベレフは、迅速かつ断固たる行動で、ドナウ渡河、シプカ峠占領に成功を収めたが、とりわけ、プレヴナ強襲で本領を発揮した。
オスマン・パシャの大軍が占領していたこの街は、ロシア・ルーマニア軍を食い止め、その前進を妨げた。多くの犠牲を出した強襲も、何ら成果を上げなかった。
1877年8月、3回目の試みで、スコベレフは待望の勝利を事実上もたらした。彼は、敵の2つの角面堡を奪取して布陣し、決定的な突破のため、援軍を待った。何時間もの間、彼の部隊は、数倍優勢なトルコ軍の猛攻に耐えねばならなかった。4回の攻撃を撃退し、約6千人の兵士を失い、しかも、ついに援軍が間に合わなかったため、スコベレフは整然と全軍を退却させた。プレヴナの陥落は、その4カ月後のことだ。
ワシリー・チュイコフ元帥は、スターリングラード攻防戦における赤軍勝利の主な立役者の一人と言って間違いない。この戦いは、第二次世界大戦における根本的な変化の始まりを画した。
彼が率いる第62軍に、最も困難な任務が委ねられた。つまり、フリードリヒ・パウルスの第6軍の猛攻をしのぎ、街を敵に与えず、時間を稼ぐこと。
赤軍は、市街戦で立ち往生した敵の集団を包囲すべく、ウラヌス作戦を始動させる準備をしていた。その準備が完了するまで、何としても持ちこたえねばならなかった。
チュイコフは、1942年9月12日、最も困難な時期に第62軍司令官となった。2か月間のうちに、彼の部隊は、ヴォルガ川の岸辺に追い詰められ、最後の力を振り絞って、わずかな街区を死守していた。トラクター工場付近と、工場「バリケード」のいくつかの区画だけだ。
第62軍司令部は、事実上最前線にあり、ドイツ軍にごく近く、危険だった。ドイツ軍兵士が突破してきて、チュイコフまでわずか数百メートルに迫ることも何度もあった。
スターリングラードでチュイコフは、接近戦のノウハウを編み出し、導入した。赤軍兵士は、ドイツ兵のすぐ間近におり、手榴弾を投げれば届くような距離だった。そのため、ドイツの空軍と砲兵隊は、同士討ちになるのを恐れ、おいそれと攻撃できずにいた。
チュイコフの提案で、特別な攻撃部隊が編成された。これがまず最初に家屋へ突入することになっていた。この部隊は、攻撃を予期していなかった敵の抵抗を抑え込み、そこを奪取して布陣し、主力部隊を待つ。
こうした接近戦の経験は、チュイコフのその後の戦闘でも、とくにベルリン守備隊との戦いで、効果的に用いられた。
「モスクワ近郊で戦っている今も、ベルリンについて考えねばならない。ソビエト軍は間違いなくベルリンに達するだろう」。第16軍司令官コンスタンティン・ロコソフスキー中将は、ソ連の首都モスクワをめぐる激戦のさなかに、特派員にこう語った。
将来の元帥は、防衛でも攻撃でも同じく効果的に行動した。彼は、スターリングラードの戦いにおける、ソ連の大反攻「ウラヌス作戦」の策定にも、積極的に参加している。ドイツのパウルス将軍とその第6軍の兵士9万人を捕虜にしたのは、彼のドン方面軍だった。
クルスクの戦いでは、中央戦線を指揮して、多層防御を構築し、極めて効果的に敵の攻撃を退けたので、相当な予備兵力を割いて、他の戦線を支援することができた。
クルスクの後では、ドニエプルの戦い、バグラチオン作戦中の中央軍集団に対する勝利、故郷のポーランドの解放、東プロイセンとポメラニアでの勝利が続いた。
ロコソフスキーが、第三帝国の首都ベルリンを占領するはずだったのだが、最後の瞬間に彼は、別の方面に転任させられた。つまり、ベルリンに進撃する第1白ロシア戦線の指揮を、ゲオルギー・ジューコフに委ねねばならなかった。
今日にいたるまで、スターリンのこうした行為の動機は不明だ。よくある説の一つでは、この決定は、ロコソフスキーがポーランド系だからだという。いずれにせよ、第二次世界大戦におけるソ連の最も有名な二人の将軍は、その後ずっと関係が悪化した。
第二次世界大戦で最高に有名な、ソ連の軍司令官、ゲオルギー・ジューコフ元帥は、西側の同盟国からも敵国からも尊敬されていた。ドイツ軍は、もしジューコフが前線に出れば、攻勢があることを知っていた。
元帥は赫々たる戦果を上げている。ノモンハン事件での日本軍に対する勝利、1941年に包囲されたレニングラードの陥落阻止、そして1943年のレニングラード封鎖の突破、モスクワ近郊での反攻、クルスクでの勝利、ベルリンの占領…。
ジューコフは、消防士さながらに、前線の最も危険な個所に「火消し」に送られた。そして、彼の決断力、冷徹さ、目的意識、そして軍司令官としての特別な直観力のおかげで、破局を避けることができた。
とはいえ、彼には失敗もあった。例えば、「火星作戦」遂行中の1942年11月~12月に起きたように。このときは、ルジェフ付近のドイツ国防軍第9軍を包囲し壊滅させる試みは、失敗している。
ソ連崩壊後、ゲオルギー・ジューコフは過大評価されていたという意見が生まれた。実際には、彼は膨大な損失を惜しまぬ凡将だったという。だが、歴史家アレクセイ・イサーエフによれば、そのような類の憶測は、戦争をめぐる「黒い神話」にすぎない。
「前線の規模と損失のパーセンテージを見ると、他の軍司令官、例えば、コーネフ、マリノフスキーのような名将と比べても、常に損失が少ない。だからこそ、ジューコフには、100万人規模の前線が任せられた。彼がこの前線を見事に処理し、損失も比較的抑えられることを、人々は承知していた。なぜなら、彼は、この分野の最高の専門家であるから」。歴史家はこう言い切る。
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