ロシアのリューリク朝の始祖、リューリクについてはほとんど何も知られていないため、彼が歴史上実在した人物か否かについては、いまだに議論が止んでいない。
リューリクについての最初の言及は、『原初年代記』(『過ぎし年月の物語』とも呼ばれる)に見られる。これは現存するロシア最古の年代記だ。
しかし問題は、この年代記がリューリクの死から約150~200年後の12世紀に書かれたことだ。情報不足のせいで、リューリクに関する議論は今日まで続いている。
ヨーロッパの8~11世紀は、「ヴァイキングの時代」として知られる。ヴァイキングは、ノルマン(北の人)とも呼ばれる。この時代、ヴァイキングの首長「コヌング」(これがスラヴ化した呼び名がクニャージ〈公〉)が、ヨーロッパ各地の都市、町、国を占領、略奪し、税を課した。 11世紀には、ノルマンの集落は、北アメリカにも存在していた。
「ヴァイキング 〜海の覇者たち〜」テレビシリーズからのシーン
Johan Renck/World 2000 Entertainment,Shaw Media, Octagon Films, Take 5 Productions, 2020『原初年代記』によれば、「ヴァイキング時代」のさなかの862年に、リューリクという名のヴァリャーグとその弟たち(または仲間)のシネウスとトルヴォルが、ノヴゴロド周辺に住むさまざまなスラヴ部族によってルーシ(ロシアの古名)に招聘されたという。
『原初年代記』によると、スラヴ人がヴァリャーグたちに送ったメッセージは次の通りだった。
「我らの国は大きく豊かだが秩序がない。我らのところへ来て、支配してほしい」
これを受けて、リューリクはノヴゴロドにやって来て、その支配者になり、彼の「弟たち」も、ベロオーゼロ(シネウス)とイズボルスク(トルヴォル)を拠点としてそれぞれ治める。弟たちが死ぬと、リューリクは唯一の支配者となり、879年に死ぬまでその座にとどまる。その後、権力は親族のオレグに譲られた。こうしてリューリク朝が始まった。
しかし、これは史実だろうか?以下に賛否両論を示そう。リューリクが実在のコヌング(クニャージ)だと主張する歴史家と、実在しなかったとする歴史家、双方の論拠を併記し、比べてみよう。
17世紀に描かれたリューリクの肖像
Public domainいわゆる「ノルマン説」の支持者はこう主張する。リューリクは歴史上実在した人物であり、将来のロシア国家の起点をつくったノルマンの首長だった、と。たとえば、歴史家エフゲニー・プチェロフは、ノルマン説の主要な支持者であり、リューリクの学術的な伝記の著者だが、その彼は、ロシアの年代記に出てくるヴァリャーグはノルマン、つまりスカンディナヴィアの首長であり、リューリクは明らかにその一人だったと主張している。
プチェロフは次の点に注意を向ける。すなわち、16世紀初め、キエフ府主教スピリドンは、モスクワ大公の血統をリューリクまでたどったうえ、リューリクはローマ帝国初代皇帝アウグストゥス(紀元前63年~14年)の親族の子孫だと主張した。ゆえに、モスクワ大公は、アウグストゥスの子孫として扱われるべきで、高貴な血を引いている、というわけだ。
「ヴァリャーグの招聘」
ヴィクトル・ヴァスネツォフという次第で、モスクワ大公国、およびロシア・ツァーリ国にとって、リューリクの実在は、彼らの支配のイデオロギー的基盤をなしていた。とはいえ、リューリクの実在を証明する十分な資料、情報はあるのだろうか?
リューリクが生きていた(らしい)のは9世紀だが(年代記によれば、彼の死は879年だ)、この時期に、現在のロシア北部――ノヴゴロド、プスコフ、イズボルスク、その他の都市――が、実際にスカンディナヴィアのヴァイキングの強い影響下にあり、交易がおこなわれていたことが考古学的に証明されている。
また、オレグ、グレブ、イーゴリ、ログネダなどの、古いロシア名は、スカンディナヴィアにルーツがあり、後に「ロシア人(ルースキイ)」という名称の語源となった言葉「ルーシ(ルス)」は、『原初年代記』によれば、リューリクが属していた部族の名だった。
ゲオルギー・ヴェルナツキー(1887~1973)、ボリス・ルイバコフ(1908~2001)など、ロシアの他の有名な歴史家の多くもこう主張している。つまり、ロシアにやって来たリューリクは、ヨーロッパでは「ドレスタットのロリク」(810~880)として知られている人物である。彼は、ユトランド半島の土地を征服したデンマークのヴァイキングであり、中世都市「ドレスタット」を支配し、ユトレヒトを含む現オランダの領域を一時領有し、晩年にはノヴゴロドに来て、スラヴ人の保護と引き換えに税を課したという。
さらに、ロシアの別の有名な中世史家アントン・ゴルスキーはこう指摘する。いくつかのビザンチン(東ローマ帝国)の年代記には、ルス人は「フランク人(ゲルマン人)から生じた」とされており、ノヴゴロドのリューリクとドレスタットのロリクが同一人物である可能性を示唆している。
ドレスタットのロリク
Getty Imagesとはいえ、リューリクの実在を明示する、議論の余地のない歴史的・考古学的な証拠はなく、多くの歴史家はそれを疑っている。
ロシアの歴史家エレーナ・メーリニコワとウラジーミル・ペトルヒンは、ヴァリャーグ招聘の物語を歴史的な神話とみなしている。この伝説は、彼らの意見では、国家権力の起源と支配王朝についてのよくある民話で、この類のものは、他の民族の古代史にも見られるという。
歴史家イーゴリ・ダニレフスキーは、ロシアの古代・中世史の著名な専門家で、リューリク実在(あるいは非実在)の問題について、エフゲニー・プチェロフの主要な論敵だ。その彼は次のように述べる。「リューリク招聘の伝説は、要するに伝説であり、それが現実に何らかの根拠をもつかどうかはまったく分からない」
こうした自分の主張を証明するために、ダニレフスキーは、中世ザクセンの年代記作者、「コルヴェイのウィドゥキンド」(925~973)の年代記『ザクセンの事績』を引き合いに出す。ウィドゥキンドは、リューリクの時代の約1世紀後に、あるいは『原初年代記』編纂の約1世紀前に、生きた人だが、さて、このザクセンの年代記の中に、スラヴ人のヴァリャーグへの招聘によく似たメッセージが、イギリスからザクセンに送られた、という言及があるのだ。「我らの国は豊穣だが、絶えず(他の部族)攻撃を受けている」
クレムリンに描かれたリューリク、イーゴリ1世、イーホル・スヴャトスラーヴィチの肖像
Mikhail Kuleshov/Sputnikこれを踏まえてダニレフスキーは主張する。『原初年代記』の記述はまったく架空のものであり、リューリク朝の正当性をイデオロギー的に根拠づけるために、政治的な理由でつくり上げられた。そのリューリク朝は、11世紀に入っても、ロシアを治めるのに苦労しており、中央ヨーロッパはもちろん、東方の遊牧民さえも、ロシアの支配をめぐりリューリク朝のライバルであり続けていた、と。
* * *
リューリクの歴史的実在をめぐる、ロシアの歴史家たちの議論は、どうやら当分止みそうもない――何らかの新発見の資料、情報が、この問題に新たな光を当てる可能性はあるが。
今のところ、コンセンサスは、一部の首長(公)、もしかすると実際にリューリクなる人物がリューリク朝を創始し、ルーシの政治的権力を握り、やがてモスクワを首都にするにいたったというものだ。そして、862年がいまでもロシア政治史の元年とされている。
とはいえ、ロシアが862年に国家として形成されたわけではない。現代ロシアに直結する国家の形成は、ずっと後の15世紀に、モスクワ大公イワン3世の治下で起きたと考えられる。
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