映画「皇帝の花嫁」のシーン。ソ連人民芸術家、ピョートル・グレボフがイワン4世の役を演じている。
Sputnikモットー:「私自ら陣頭に立ち、汝らを攻撃する!」
「彼は、自分の遠征に馬車も鍋も携えなかった…。天幕も持参しなかった。むしろ、馬着を地に敷き、鞍を枕とすることを好んだ。彼の従者たちもそのようにした」
東スラヴ最古の年代記には、スヴャトスラフ1世はこのように描かれている。彼は、ロシアの源流となった中世国家「キエフ・ルーシ」の最大版図を築いた(ルーシをキリスト教化したウラジーミル1世は彼の子だ)。10世紀ルーシの君主は、スパルタ風の戦士であった。
スヴャトスラフは隣国、隣人との絶えざる戦いの中でその全治世を過ごした。彼はルーシ最後の異教徒の支配者であり、キリスト教への改宗は望まなかった。改宗により戦士たちの忠誠を失うことを恐れたためだ。
彼は、その治世の末期までに、ヨーロッパ最大の版図をその剣により戦い取った。
スヴャトスラフは、強国「ハザール」を滅ぼした。この国は、ヴォルガ川による貿易ルートの南部を支配していた。また彼は、東スラヴの諸部族を制圧し、アラン人とヴォルガ・ブルガール人をも破った。彼はさらに、西部でブルガリアに勝利し、首都をキエフからドナウ川沿岸に移そうとした。
しかし、彼の対ブルガリア勝利は、隣国のビザンツ帝国(東ローマ帝国)を刺激する。帝国は好戦的なスラヴの公に対処するため軍隊を送ってきた。
ビザンツの派兵により、スヴャトスラフは撤退を余儀なくされる。キエフへの帰途、彼は遊牧民「ペチェネグ族」に襲われた。これは彼らの単独行動ではなく、ビザンツにそそのかされたと考えられている。スヴャトスラフは戦死し、部族の首長は、年代記の記述によると、スヴャトスラフの頭蓋骨に金箔を貼って酒盃にさせたという。
モットー:「我が軍の将帥は人ではなく神である」
イワン4世は、平和と戦争、いずれの問題を追求する際にも、残酷かつ執念深い支配者だった。そのことは、彼の最初の遠征ですでに明らかだ。1547年のカザン・ハン国への遠征である。
カザンとアストラハン、2つのハン国は、2世紀以上にわたりロシアの広大な領域を支配してきたキプチャク・ハン国(ジョチ・ウルス)の残滓だった。
遠征は、ロシアへのハン国の侵攻を阻止するという実際的な必要性のほかに、象徴的な面ももっていた。それはかつての属国的立場から完全に脱し、モスクワ公国の新たな地位を誇示するものだった。
「これらの戦いに勝利するためには、巨大な努力と犠牲が必要だった。カザンを占領するには、ロシアのほぼ全軍を動員して、3回の大遠征を行わなければならなかった。こう言っても過言ではない」。ロシアの歴史家ヴィタリー・ペンスコイはこう述べている(ロシア語)。
イワン4世は、東方へロシアの領土を広げ、さらにシベリアへ拡大する道を切り開いた後、南と西に目を向ける。
クリミア・タタール人は、しばしばロシア領を襲撃、略奪し、ときにはモスクワにまで達していた。1571年には、クリミア・ハンは、ポーランド・リトアニア連合王国と結託して、モスクワを襲い、街を焼き払った。
しかし、これがハンの勢力の絶頂だった。翌年、彼の12万の大軍は、イワン雷帝の兵力でははるかに劣る軍隊により撃破される。帰国できたクリミアの戦士は、わずか1万にすぎなかった。こうして、クリミア・ハン国来襲の問題は解決された。
だがイワンの西方の敵は、こうはいかなかった。バルト海の交易ルートへのアクセスを得るために、ツァーリは、リヴォニア騎士団に対する戦争を始めた。これは、ドイツ騎士団の残党であり、リヴォニア(現在のバルト三国の地域)を支配していた。
ペンスコイによれば、「イワン4世は、戦争の最初の20年間は主導権を握っていた(戦争は四半世紀も続いた)」。レヴァル(タリン)とリガの2大都市を除き、リヴォニアのかなりの部分を占領した。
しかしやがて雷帝は、得たものをすべて失うことになる。「モスクワ公国は、二つの戦線(南と西)で同時に成功裏に戦うだけの人的、物的資源を欠いていたためだ」
しかし、一部の歴史家が強調しているように、リヴォニア戦争は、イワンにとって二義的な重要性しかもたなかった。主な戦い――すなわちカザン、アストラハン、クリミア・タタールに対する戦争では彼は勝利した。
モットー:「私が生きている限りは、祖国をペンと剣で守る」
彼女は、ドイツ人であるにもかかわらず(神聖ローマ帝国の領邦の出身)、他のロシア人の支配者の大半がなし得なかったような成果を挙げた。18世紀後半の40年間の治世に、多くの戦争を戦い、そのすべてで勝利を収めた。
エカテリーナ治下でロシアは、ほとんどすべての隣国と干戈を交えている。数回戦った国もある。
エカテリーナのロシアは2度トルコに戦いを挑み、クリミアおよび黒海の北岸地域を奪った。後者は現在、ウクライナの領土のかなりの部分を占めている。ポーランドとも何度か戦い、その結果、ロシアは、現在のベラルーシとウクライナ西部を領有。エカテリーナはまた、スウェーデンとペルシャも破った。しばしばロシアは、別々の国境で両面作戦を行った。
このほかエカテリーナは、ロシア帝国史上の最大の農民反乱である「プガチェフの乱」を鎮圧している。
19世紀の主要な歴史家の一人、セルゲイ・ソロヴィヨフは、こう述べた。ロシア国家の発展においてエカテリーナは、「先駆者ピョートル大帝の後をしっかりと受け継ぎ、彼女もまた大帝と呼ばれるようになった」
現代の歴史家ニコライ・パヴレンコは、両大帝の比較をさらに進めて、こう言う。
「ピョートル大帝がバルト海に進出し、バルチック艦隊を創設したのに対し、エカテリーナは黒海沿岸に進出し、強力な黒海艦隊をつくり、クリミアをロシア領とした。ピョートルは東ヨーロッパの周辺を帝国領に組み込んだが、エカテリーナはそれをさらに栄光あるものとし、国土を広げ、国力を強化した」(ロシア語)。
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