ミハイル・レールモントフ

ロシアの偉大な詩人、ミハイル・レールモントフ(1814~1841)は、その作品からだけではなく、その生涯からも強い情熱を感じさせる。

ミハイル・レールモントフ

名声とスキャンダル 

 彼は一瞬のうちに名声を獲得した。それは、彼が信じてやまない詩人プーシキンが決闘によって死んだことを、ロシアが嘆き悲しんだ日のことだった。プーシキンの死に動揺した22歳の騎兵士官は、大胆で非常に情熱的な詩を書いた。その詩は書き写され、人々の手を伝ってペテルブルク中に広まった。その詩の中で、レールモントフはプーシキンの死に関係した上流階級とその権力を直截的に弾劾した。その結果はすぐにやってきた。自由思想家の詩人は逮捕され、戦争の続いていたカフカスに送られた。

 レールモントフはカフカスを愛し、とくにグルジアがお気に入りだった。それに加えそこでは戦闘を行うこともなく、「二、三発、銃声を聞いた」だけだった。彼は構想と題材にあふれるグルジアから帰ってくると、2年ほどのうちに、彼の最も有名な作品のいくつかを書いたのだった。

ミハイル・レールモントフ作の絵

 しかしほどなくして詩人は再び権力の注意を引きつけてしまう。彼は、ロシアでは禁止されている決闘に参加したのである。彼は再びカフカスへ送られた。それも今度はグルジアではなく、本格的な戦闘の行われていたチェチェンであった。

 戦闘では彼は少しも命を惜しむことなく、いささか度の過ぎた勇敢ささえ発揮した。ところが平時には、彼のまわりの人々は、しばしばレールモントフの嘲笑の矛先を向けられて格好の餌食にされた。

悪魔的な性格 

 レールモントフの周囲には、総じて常に激情が渦巻いていた。それはすでに彼の幼少時代からのものであり、また詩人の死後にまで及ぶものだった。

 レールモントフの母は、彼がまだ2歳だった頃になくなった。彼女は極端に不幸な結婚をし、またその不幸な家庭生活は、彼女の早すぎる死の原因ともなった。

 レールモントフの父はロシアへ帰化したスコットランド人の血をひき、家の言い伝えによれば中世の詩人トーマス・レルモント(リアマンス、Thomas the Rhymer 「押韻詩人トマス」として知られる)に発する家系だとされる。

 父もまた軍人で、財産はなかったが色男で、女性にはもてた。妻の死後、彼は、息子を裕福な姑に預けた。自分は、姑のように十分な教育を息子に与えることができないと分かっていたので。祖母は唯一の孫であるレールモントフを溺愛したが、その愛も家族の悲劇を和らげることはできなかった。

ミハイル・レールモントフ

 レールモントフは感受性に富んだ心をもっていた。10歳で初恋を経験し、13歳にして本格的な詩を書いた。彼は自身を早熟と見なし、作品でそれを証明してみせる一方、その短い生涯の間、ある部分においてはまったくの子供であり続けた。陸軍幼年学校では快活な仲間たちの人気者であり、いたずらと腕白さに関しては無尽蔵の才を発揮し、つねに何かを企んでいる子供であった。そして、そのいたずらは常に無邪気な、罪のないものであったわけではなかった。

 勉学をやめると(モスクワ大学を中退)、レールモントフは遊びをつづけた。その時間で彼は、勉強に集中するよりも豊かな経験を得ることになり、また将来の作品のための材料を蓄えることができたのだった。たとえば、彼はかつて自分の愛を拒絶した娘に復讐した。改めて彼女に惚れ込んだふりをして両想いにさせたあと… 自分たちの関係を引き裂かせるために、彼女の両親に、匿名で自分自身を誹謗する手紙を書いたのである。彼はこのようないたずらに非常に満足し、そのことを友人への手紙に書いている。最も驚くべきことは、彼はこのいたずらの結果をそのままにせず、あろうことかこの娘の結婚の付添人になったことである。もちろん、花婿の側の、だが。 

不可解な決闘 

 こういった彼のいたずらや行動については、疑わしい部分があるにせよ、彼の才能において疑わしいことなどはひとつもない。レールモントフは総じてあらゆる才能にめぐまれており、それは文学における一面にとどまらなかった。

 彼は音楽に関しても繊細な感受性を持ち、また絵画にも才能を発揮した。騎兵連隊に入ったのは、この時代の伝統に従ったものであった。その上、騎兵という職は常に特別で魅力的なものであった一方、レールモントフは自身の容貌に満足することはなかった。このことは、彼が後に悲劇的な最期を遂げる、そのひとつの原因でもあったかもしれない。

 2度目のカフカス送りとなった1841年の夏、レールモントフは休暇を得てピャチゴルスクに滞在した。そこで彼は、古い友人である退役将校ニコライ・マルトィノフと、運命的な決闘を行った。当時の人々は、これは実質的な殺人であったとみなした(*つまり、形式的にお互いの頭上に向けて発砲するようなものではなく、最初から殺すつもりで撃ったということ――編集部注)。

ニコライ・マルトィノフ

 実際にこの決闘の原因が何であったのかは、この1世紀半の間、ずっと議論されてきた。レールモントフがいつもの調子でマルトイノフを嘲笑したことがたまたま彼の気に触り、ゆえに決闘になった、というのが広く信じられている原因だ。マルトィノフはどうやらあまり賢い人間ではなかったようだが、そのかわり、レールモントフとはちがって、かなり魅力的な容貌をしていた。

 二人が言い寄っていた女性をめぐっての科(とが)だとする説(そういう異説も存在する)もあれば、すべては自由思想の詩人を亡き者にしようとたくらむ、ツァーリの手先が仕組んだものだとする説(ソ連時代には非常によく知られた説である)もあるが、いずれにしても決闘自体は行われた。レールモントフは27歳を迎えることなく、またロシアは、最も前途有望な詩人を失ったのだった。

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