スターリングラードの地獄の戦火:両軍兵士の証言

スターリングラードをめぐる攻防戦は、8月23日の大空襲の後に始まり、約2ヶ月間続いた。

スターリングラードをめぐる攻防戦は、8月23日の大空襲の後に始まり、約2ヶ月間続いた。

Emmanuil Evzerikhin/Wikipedia
 スターリングラード攻防戦でソ連軍が反撃に転じてから75年が経つ。ソ連軍は、戦いの当初、ナチスドイツの猛攻に抵抗できず敗北の瀬戸際に見えたが、やがて反攻に成功し勝利をおさめ、これが独ソ戦(大祖国戦争)全体の行方を変えた。ロシア・ビヨンドは、この戦いを経験した人々の回想を通じて、凄惨な歴史的事件を振り返る。

 ドイツ軍は、1942年7月半ばに、ソ連の指導者の名を冠した都市に対し、攻撃を開始した。もしスターリングラードが陥落すれば、ヒトラーは、喉から手が出るほど欲しいカフカスとカスピ海の石油を手にし、ソ連にとっては悲惨極まる戦略的結果を招いただろう。市をめぐる攻防戦は、8月23日の大空襲の後に始まり、赤軍が大反攻を行うまで、約2ヶ月間続いた。

スターリングラードの大空襲:街も空も燃える

 「大規模な空襲。2時間で街は破壊された。煙、空気の不足、炎の輝き...すべてが燃えている。レンガさえも。我々は、ライフルからも敵機を銃撃していた。ここは地獄だ。地上の地獄そのものだ!」。対空砲兵連隊にいたマリーナ・クラスヌイフは日記にこう書いている

第二次世界大戦のこの時点では、ドイツ空軍による最大の空襲で、のべ2000機以上により行われた。

 「家屋が燃えている。ビル、文化会館、学校、研究所、劇場、様々なオフィスが崩れ落ちている。街は真の地獄に変わった...煙で暗くなった空から爆弾が降り続ける。 市の中心部は、想像もできないほど巨大な炎に包まれている。高温のため、異常な強風が起き、さらに炎を拡大した。今や、一切が炎に包まれているように見える。空も、地平線から別の地平線までの、あらゆる空間も」。スターリングラードの共産党支部の幹部だったアレクセイ・チュヤノフは、空襲時に目撃した様をこう描いている

 市中心部の気温は、摂氏1000度に達したと考えられている。これは、第二次世界大戦のこの時点では、ドイツ空軍による最大の空襲で、のべ2000機以上により行われた。

 こうして、スターリングラードは廃墟と化した。どれほど多くの住民が殺されたかは、誰にも分からないが、4万〜9万人と推定されている。複数の歴史家の見解では、ドイツ軍はソ連軍による防衛を不可能にし、市の産業の潜在力を壊滅させ、防衛者に恐怖を植え付けることを目論んでいた。

 これと似たような空襲が、後に連合国側により、ハンブルク、ドレスデン、東京でも行われたが、スターリングラードは抵抗し続けた。


パヴロフの家

 「10月3日、敵(ドイツ軍)が我々の建物を攻撃し始めた。建物は、この地区では、ヴォルガ川に至る拠点となっていたから、敵はどんな犠牲を払っても、これを占拠しようとした。連日我々は、何度も猛烈な攻撃にさらされ、応戦しなければならなかった。2か月間にわたる建物の防衛には24人が参加したが、15人以下になったこともあった。それでも我々は多くの“ヒトラー信者”たちを殺害した」。建物を防衛した一人、イワン・アファナーシェフは、試練の日々についてこう記している

ヤコヴ・パヴロフ軍曹。彼の名にちなみ、この建物に「パヴロフの家」という呼び名がついた。

 スターリングラード防衛の司令官(1942年9月12日に任命)、ワシリー・チュイコフ中将は、後に回想録で、ドイツ軍は、このパヴロフの家で、パリ占領に際してよりも多くの人員を失ったと指摘した。

 「我々は一握りの数しかいないのに、ナチの飛行機から爆弾を大量に浴びせられ、戦車に攻撃され、大砲、迫撃砲に容赦なく砲撃された。機械銃や自動ライフルからの銃撃は一瞬も止まかった。しかも我々は、弾薬、食糧、水が不足し、砲弾の爆発のせいで空気も足りなかった」。ヤコヴ・パヴロフ軍曹は、後にこう振り返っている。彼の名にちなみ、この建物に「パヴロフの家」という呼び名がついた。

 スターリングラード攻撃の主力、第6軍の司令官フリードリヒ・パウルスが所有していた地図では、パヴロフの家は、要塞として記されていたという。戦争の前は、この家は普通の4階建てアパートにすぎなかったが、スターリングラードにおける赤軍兵士の不屈の抵抗の象徴となった。


「スターリングラードは地獄だ」

 「私は昨日から食べていない。コーヒーを飲んだだけだ。すっかり絶望している。神よ、こんなことがあとどれだけ続くのか?負傷した兵士たちは、我々といっしょにいる。移送できないのだ。我々は包囲されているから。スターリングラードは地獄だ。我々は死んだ馬の肉を煮て食っている。塩はない。多くの者が赤痢にかかった。何というひどい人生!こんな罰を受けるほど、何か悪いことを私はこれまでの人生でしたのだろうか?この地下室には、30人も詰め込まれている。昼の2時にはもう暗くなる。夜は長い。明日の昼を拝むことは果たしてできるだろうか?」。これは、ドイツ軍の無名の伍長が、12月10日に日記に書いたものだ。おそらく、彼は生き残れなかっただろう。彼のメモは、12月下旬~1月初旬に、ソ連軍によって発見された。

ドイツ軍は、11月19日に始まったソ連軍の大攻勢(ウラヌス作戦)を予期していなかった。その結果、ソ連軍は、ドイツの第6軍とその同盟国の部隊を包囲。

 ドイツ軍は、11月19日に始まったソ連軍の大攻勢(ウラヌス作戦)を予期していなかった。その結果、ソ連軍は、ドイツの第6軍とその同盟国の部隊を包囲。9万人以上のドイツ軍将兵が捕虜になった。また、スターリングラード攻防戦の全体を通して、ドイツとその同盟国は、約100万人の将兵を失った。こうして、スターリングラード攻防戦は、ナチス・ドイツとの戦いの転換点になった。

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