1. あまりに暗い
ロシア文学でハッピーエンドの作品を見つけるのは難しい。有名な小説のほとんどは「めでたしめでたし」では終わらない。たとえ最後に一縷の希望があったとしても、大抵の登場人物はその前に死んだり、苦しんだりしていたはずだ。そして、真実の愛でさえ、決して幸せや安楽には恵まれない。
多くの作品では、暗い状況や場面が登場し、そこで暗い人々とその生活が描かれる。暗い街の風景、貧困、上司の横暴と冷酷さに苦しむ人々…。
2. 残酷さと恐怖
あなたが読んだロシア文学の作品を思い出してみよう…。殺人、身体的暴力、レイプなどがあったに違いない。農民が飼い犬を殺し(イワン・ツルゲーネフの『ムムー』)、女性をめぐり決闘で友人を撃ち殺し(アレクサンドル・プーシキンの『エフゲニー・オネーギン』、レールモントフの『現代の英雄』)、息子が父親を殺す(フョードル・ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』)、妻が夫、義父、さらには幼い甥さえも殺す(ニコライ・レスコフの『ムツェンスク郡のマクベス夫人』)。もちろん、自殺が出てくる小説は枚挙に暇がない…。
それらは大抵、無制限で無意味で不当な暴力だ。そして読者は、フラストレーションが溜まったまま、人間性を信じることをやめ、忌まわしい気質と攻撃性がいたるところにあると思うだろう。
ニコライ・ゴーゴリはありとあらゆる不浄な力を顕現させ、作品に本物の悪を盛り込み、それが我々の周りに偏在することを示している。恐ろしや!
3. 現代の世界観にはそぐわない
『アンナ・カレーニナ』を読んだ女性は何を学ぶべきか?愛のためにすべてと自分自身を犠牲にする?何十年もの間、現代の女性は、フェミニズム、平等の権利、自己実現の必要性を教えられてきた。愛に安らぎを見いだせずに自殺する女性についての古典的作品を読んだ後、女性たちは一体どう感じるべきだろうか?
さらに、19世紀ロシア文学は、非常に理解し難いことがある。そこに描かれた生活の多くの現実は、もはや存在しない。もう遠い昔のことだし、また、別の国、ロシア帝国のことだからだ。この国家は、貴族と農民の暮らしのあらゆるディテールもろとも、ボリシェヴィキ政権によって破壊されてしまった。エフゲニー・オネーギンのように、どこでも働かず、社会での生活に退屈し切っている若い金持ちなんて、21世紀はもちろんのこと、20世紀でも想像できない…。
4. 物事をくよくよ考えすぎて罪悪感をもつようになる
考えすぎと不安は、我々の世代の主な問題の一つであり、そのせいで、結局、心理学者の世話になるかもしれない。そしてロシア文学は、こうした感情の火に油を注ぐだけだ!
登場人物たちは、自分の暮らしをもっと良くする方法とか、お金を稼ぐこととか、家庭をもつことなどについてはあまり考えない。彼らは、この世界がどのように回転しているのか、そしてこの回転における自分の役割は何か、といったことに頭を悩ましている。
『罪と罰』の貧しい元学生、ロディオン・ラスコーリニコフは、この世界で自分に「発言権」があるかどうかだけを気に病んでいる。彼は、自分が偉大な決断を下し得る人間ではないことに苦しむ。そして、自分にも何かを変える権利があることを証明するために…彼は老婦人を殺すのだ!(再び「2」を参照)。
一方、一部の小説は、正教の伝統的な人生観だけでなく、道徳、名誉、尊厳の問題に圧倒されている。たとえば、トルストイは、快楽としてのセックスは絶ち、娯楽はやめて、他者に奉仕し、彼らの罪や必要に心を配るべきだと言う。そして、彼の考えでは、大抵の結婚は、情欲を抱いた二人の、欺瞞的な契約である。
さらに、ロシア作家たちは、自分のことよりも他者のことを慮るべしと言い、怠惰(イワン・ゴンチャロフの『オブロモフ』のような)やさまざまな弱さ(例えば、アレクサンドル・プーシキンやフョードル・ドストエフスキーの作品に出てくる賭博狂のような)を非難する。
5. 時にはただもう退屈だ…
ロシアでは、人々はこんな冗談を言う。『戦争と平和』を読んでいる女子生徒は、戦争の場面を抜かし、男子生徒は、舞踏会や恋に恋するナターシャ・ロストワの描写をすっ飛ばしている、と。
(これはレフ・トルストイだけの特徴ではないが)ロシア作家は、あまりに饒舌なことがある。 彼らは同じ観念や考えを、さまざまな言葉で何度も噛み砕いては語り続ける。簡単な短いフレーズで語り得る内容が章に変わる。そして何ページにもわたる自然描写!
現代のソーシャルメディアユーザーは、そうした長たらしいテキストや過度の情報をもはや吸収できない。それらは、実際の役には立たないのだから。