ドミトリー、イワン、アレクセイは、フョードル・カラマーゾフの3人の息子だ。フョードルは、地方都市の好色でシニカルな地主。三兄弟は、性格も人生観もそれぞれに異なる。
末弟のアレクセイは 20 歳で、すでに修道士になる準備をしている。彼は、信仰者であり、近くの修道院で、ゾシマ長老という老いた賢者のもとに常にかしずいている。次男のイワンは学者で哲学者であり、冷徹な懐疑論者でもある。神が存在するかどうか、魂のようなものが存在するか否か理解しようと、彼はいつも煩悶している…。そして彼は常に、宗教的な問題についてアレクセイと議論している。
映画「カラマーゾフの兄弟」からのシーン、1968年
Ivan Pyrev/Mosfilmアレクセイもイワンも、父親と長兄との関係を危ぶんでいる。フョードルの最初の妻から生まれた長男ドミトリーは、父親の心遣いや愛情はあまり受けず、ましてや金銭的に甘やかされたことなどかつてなかった。幼時に親戚に引き取られ、その後は父と会うことはあまりなかった。
ドミトリーはエモーショナルで、短気で情熱的な男だ(惚れっぽさという点では父に似ている)。小説は、ドミトリーが父親にお金と遺産の一部を要求するところから始まる。そしてドミトリーは、自分の養育に無関心だったことで父を咎める。しかし、フョードルは彼に何も与えたくない。父子の関係はすでにひどく損なわれているが、二人がグルーシェンカという同じ女性に惚れ込んだことでいよいよ紛糾する…。おまけに彼女は、二人のいずれとも付き合っている。
映画「カラマーゾフの兄弟」からのシーン、1968年
Ivan Pyrev/Mosfilmドミトリーはグルーシェンカを血眼で追い回し、彼女と自分の父親が一緒にいる「現場」を押さえようとする。イワンは、金と女のせいでドミトリーが父を殺すのではと懸念している。そして、ある夜、ドミトリーがグルーシェンカと酒を飲んでいると、警察がやって来て、彼の父親が殺されたと言う。そして、主な容疑者としてドミトリーが逮捕される。
しかし、真の殺人者がイワンに告白する。それは、フョードルが農奴の女性に産ませた私生児で、彼の召使のようなことをしている。彼、スメルジャコフ(ロシア語の「臭い」が語源)は、イワンの考えに触発されたと言う――神がいなければ、道徳がないなら、すべてが許される…。そして、スメルジャコフは、癲癇の発作を起こしたふりをしていたので、アリバイがある。しかし結局、彼は、自分の行動と折り合いをつけられず、自殺してしまう。
映画「カラマーゾフの兄弟」からのシーン、1968年
Ivan Pyrev/Mosfilm小説の幕切れは、ドミトリーの裁判の長大な描写だ。イワンは、スメルジャコフの話をするが、狂気に陥ってしまう。そのため、人々は、単に弟を助けたいだけだと思って、イワンを信じない。検事と弁護士は雄弁を振るい、ドミトリーの「犯罪を解明する」。そして結局、無実のドミトリーは懲役刑を言い渡される。
ドストエフスキーは、新聞で読んだ実際の犯罪から筋をとった。ただし、それは、この作品の推理小説的なプロットの部分にすぎず、はるかに深い意味をもっている。ドストエフスキー最後のこの作品は、愛、罪、神、道徳についての彼ならではの深淵な思索だ。
演劇「カラマーゾフの兄弟」の舞台にて
Sergey Pyatakov/Sputnikこの小説は信じ難いほどの心理描写に満ちている(ドストエフスキーは、ロシア文学の心理小説のパイオニアだ)。彼は、ロシアの魂を理解し登場人物の思考と行動を分析しようと試みる。なぜ彼らはそのように行動するのか? 彼らがさまざまな罪を犯すのはなぜか?作家はこうした問題に心を凝らす。
登場人物の修道士ゾシマは長老で、叡智に満ちた助言を与え、禁欲と祈りによる完全なキリスト教徒の生活を送っている。彼には、オプチナ原野(プスティニ)修道院のアンヴローシー長老という実在のモデルがおり、彼は生前から聖人とみなされていた。ゾシマという人物像は、魂を救うことができる信仰の一例だ。
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