画家フラヴィツキーの有名な絵画『皇女タラカノワ』は何を描いているのか?

Tretyakov Gallery
 コンスタンチン・フラヴィツキーの有名な絵画は、18 世紀ロシアの劇的で奇怪な事件を描いている。

 モスクワに美術の殿堂「トレチャコフ美術館」がある。ガイド付きで見学に訪れた学童はみな、「この絵ではいったい何が起きているのか考えてみよう!」と言われる。あなたはお分かりになるだろうか?

 なぜ若い女性は、洪水に襲われながら、逃げようとしないのか?注意深い人なら、鼠が彼女のベッドに這い上がっていること、水がベッドの高さに達していること、水がさらに窓からも部屋に流れ込んでいることに気づくだろう。そして、窓に格子がはまっていることにも。

 絵に描かれた女性はエリザヴェータ・ウラジーミルスカヤ。皇女タラカノワの名でも知られる。彼女は、ロシアで最も有名な女性の山師の一人であり、ロシアの帝位を要求した僭称者だ。サンクトペテルブルクのペトロパヴロフスク要塞監獄で亡くなった…もっとも、絵画ほど劇的にではなかったが。そもそもの発端から始めよう。 

皇女タラカノワとは何者か

ロシアの女帝エリザヴェータ・ペトローヴナとその寵臣アレクセイ・ラズモフスキー伯爵

 ロシアの女帝エリザヴェータ(ピョートル大帝の娘)は、正式には結婚しておらず子供もいなかったが、寵臣アレクセイ・ラズモフスキーと密かに結婚していたと言われている。そして伝えられるところによれば、二人の間に娘がいたかもしれないという。しかし、それを証明する歴史的資料はない。

 エリザヴェータの死後、甥のピョートル3世が即位したが、間もなくその妻エカチェリーナ2世(大帝)がクーデターを起こし、帝位を奪った。そして、ピョートル3世は謎の死を遂げる(エカチェリーナが殺させたらしいとの噂が流れた)。

 彼女の治世中、多くのさまざまな男たちがピョートル3世を名乗り、クーデターから奇跡的に生き残ったと主張した。その最も有名な人物の一人が、大反乱「プガチョフの乱」を率いたコサックのアタマン、エメリヤン・プガチョフだ。この反乱は、「1773~1775年の農民戦争」と呼ばれることもある。

 ロシアの帝位を奪おうとしたもう一人の山師がエリザヴェータ・ウラジーミルスカヤだ。彼女は、女帝エリザヴェータの隠し子であり、エカチェリーナ2世よりも正当な後継者だと吹聴した。

ヨーロッパで金蔓と支持者を見つける

タラカノワの浅浮彫りとされるもの

  実際には、彼女はエリザヴェータと名乗っており、タラカノワの姓は用いていない。これはかなり滑稽な苗字だ(「タラカン」は、ロシア語でゴキブリを意味するので、貴婦人がこうした姓を持つ可能性は非常に低い)。タラカノワは、フランスの外交官で作家のジャン・アンリ・カステラに付けられた通称だ。彼は、エカチェリーナ2世についての本の中で彼女の一件に触れた。

 彼女は自分の出自についていろんな人にいろんな話をしたらしく、どれが真実なのかは未だに不明だ。彼女は数か国語を知っており(ロシア語は知らなかった)、完璧な礼儀作法を身につけていた。おそらく彼女は、ヨーロッパの女性(フランス人、ドイツ人、イタリア人…)であったと思われる。

 エリザヴェータは常に金策に奔走し、債権者から隠れて欧州中を逃げ回っていた。あるとき彼女は、ロシアで巨額の遺産をもらえるという噂を広めた。彼女はギャンブルに深入りして、2人の高位の貴族(リンブルフ・シュトルム伯フィリップ・フェルディナンドとポーランドのカロル・スタニスワフ・ラジヴィウ公)によって破産寸前にまで追い込まれていた。

ロシアの玉座を狙う

 1774年、タラカノワは、自分が女帝エリザヴェータの隠し子であり、ロシアの帝位に正当な権利を有するとの噂を広め始めた。そして、欧州で支持者を集め始め、その際に、ロシアには同調する者が大勢いると吹聴した(これは嘘だった)。さらに彼女は、プロイセン国王フリードリヒ2世(大王)とポーランド国王スタニスワフ・ポニャトフスキに話を持ちかけて味方に引き入れようとしたが、それは実現しなかった。

アレクセイ・オルロフ伯爵

 タラカノワは、プガチョフの支援を受けてロシア皇后になる意向だとして、その宣言の文書を欧州中で、多くの人にばら撒き始めた。ロシアの伯爵でエカチェリーナ2世の側近であるアレクセイ・オルロフも、そうした宣言の1つを入手する。当時、彼は欧州におけるロシア艦隊の司令官だった。

 オルロフは、この僭称者についてエカチェリーナ2世と連絡を取り、女帝の許可を得てタラカノワをロシアに連行する任務を引き受けた。オルロフはタラカノワに、自分が彼女に忠実だと信じ込ませ(さらには、彼女を愛していて結婚したがっていると思い込ませた)、彼女をだましてロシア行きの船に乗せた。

欺いて捕らえ、船でロシアへ送る

 オルロフは、偽皇女をイタリアのリヴォルノ(英語名はレグホーン)に招き、彼が指揮するロシア艦隊を視察させた。水兵たちは、彼女を厳かに歓迎して船の一つに乗せる場面を演じたが、そこで彼女はすぐに逮捕された。彼女は最初、オルロフが関わっていることに気づかず、彼に恋文を送り、助けを求め続けた。 

タラカノワは最後の日々を要塞監獄の司令官の家の地下室で過ごした

 サンクトペテルブルクでは、彼女はすぐに、政治犯が収容されていたペトロパヴロフスク要塞に投獄された。捜査と尋問が行われている間、彼女は、皇室の出であることを主張し続け、エカチェリーナ2世との面会を要求しさえした。

 捜査官たちは、彼女の本当の身元を探ろうとし、もし彼女が白状したら恩赦を与える提案までした。しかし、タラカノワは、正体を明かすことなく、1775年12月に亡くなった。

フラヴィツキーの絵画

 タラカノワのような山師は、国家の観点からは犯罪者とみなされるが、一般の文化は、彼らに同情はしないまでもその人間像に関心を抱いた。詩人アレクサンドル・プーシキンは、小説『大尉の娘』でプガチョフについて書き、タラカノワは、画家コンスタンチン・フラヴィツキーによって、その名が不朽となった。

 実際には、タラカノワは結核で死亡した。しかし、時とともに、彼女の死をめぐり多くの伝説が生まれてくる。そして、そのうちの一つがフラヴィツキーをインスパイアした。つまり、彼女が大洪水の際に地下室で非業の死を遂げたという風説だ(ただし、その洪水は、彼女の死後2年後に起きている)。皮肉なことに、画家自身も結核で亡くなった。 

コンスタンチン・フラヴィツキー「皇女タラカノワの頭部」(『皇女タラカノワ』のための習作)

 この絵は彼に名声をもたらし、芸術界から讃えられ、とくにその劇的なポーズや表情が賞賛された。『皇女タラカノワ』は、パーヴェル・トレチャコフのコレクション中で最初の歴史画となり、これに続いて多数の歴史画が収集されていく。トレチャコフ美術館の創設者であるこの有名なコレクターには、次の点が大いに気に入った。つまり、この作品がロシアの出来事を題材としており、ロシア美術に多大な貢献をしたことだ。

 1867年、パリ万国博覧会に『皇女タラカノワ』は出品された。しかし、時の皇帝アレクサンドル2世は、付属のカタログに「この題材は小説からとられたものであり、歴史的事実は含まれていない」との注記を加えるよう命じた。 

絵画の初期バージョン

 この興味津々の出来事に基づいて、数多くの小説が書かれた。1990年には、タラカノワの物語を描いたソ連映画『皇帝の狩猟』(アンナ・サモヒナ主演)が公開されている。

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